07/30/06
明治以降の刑事関係法の歴史10(旧々刑事訴訟法)
07/08/06・・・3「明治以降の刑事関係法の歴史7(治罪法2・・・予審判事1)」のコラムから、治罪法で採用された予審判事制度、公判前整理手続、さらには国選費用の相当性・・刑事弁護の専門化に話が逸れてしまいました。
再び治罪法制定当時の話に戻ります。
この刑法と治罪法は、体系的にすばらしいものでしたが、この治罪法はわが国の国情に合わないという批判が起こります。
刑法反対運動については、後にも、少し触れますが、さしあたり刑事手続法の話をすすめます。
明治23年2月にはドイツ人ルドルフにより、裁判所構成法が制定され、裁判所の構成に関する部分が治罪法から独立しました。
そして、同年10月「旧々刑事訴訟法」が制定されるのです。
勿論当時は、「旧々」刑事訴訟法などと言う名ではなく、ちゃんとした「刑事訴訟法だったのですが、現行法から見れば大正11年の旧刑訴の前ですから、旧々刑訴といわれるだけです。
旧々刑事訴訟法は、治罪法から裁判所の構成が抜けただけの改正で、根本的な改正ではなかったようですが、同時期に民法も同様の論争(反対運動)が起こったのです・・・・民法制定の経過については、平成3年6月4日の4「民法典論争1」以下で連載しています。
また、03/30/05「夫婦別姓16(家制度の完成)氏の統一2」前後30ページほどに亘って夫婦別氏論を書いていますが、ここでも民法典論争を民法制定過程が夫婦別氏から同氏になった経緯として紹介していますので参考にしてください。
民法の方は生活の基本ですから、国民を巻き込んだ大論争になったのですが、刑事訴訟法は国民大方の関心をそれ程引かなかったらしく、政治問題としては歴史上大きく浮上していません。
この旧々刑事訴訟法では、検事局が裁判所に付置されたことは後に変わりますが、検事の任官資格や俸給についても裁判官と同一となったこと,及び職務権限など現在の検察制度の基本・・・公訴官・公益の代表などの基本的性格がこのときに定まったらしいのです。
大正11年には、旧刑事訴訟法が制定・公布 されますが、骨格はそれほど変らず・・これが敗戦まで続くのです。
予審判事制度もそのままであったことを、07/09/06「明治以降の刑事関係法の歴史9(旧刑事訴訟法1・・・・予審判事3)」のコラムで旧刑事訴訟法の条文を引用して紹介したとおりです
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