07/11/06
知事と判事2(官の無謬性の弊1 )
ついでに「理事」と言う熟語の内「理」とは、そのトップはオーナーでないことを意味し、上位者から管理を託された意味を含むことは、09/01/03「代表と代理(大理石)理事の違い」総理の理その他のコラムで連載しました。
知事の場合の「知」は、国家権能の一部を知行した(指定したその領域内での封建領主的支配権能の分与)意味を、多分含むのでしょう。
明治時代の、知事と判事の違いを見れば、国政のうち領域支配に関する政治的意思表示(政治的発言ですから、いろいろな意味が有り得ます。)をできるものを知事と言い、個別案件について言わば、白黒・二者択一の判断(政治的曖昧さは不要です)・・・・国家意思表示をする者を、判事と言う使い分けだったのでしょう。
当時は、今のように、3権分立を前提にした司法と行政の違いと言う区分けで、物事を考えて区別するよりは、国家意思表示としての判断を示すものかどうかと言う違いだったのです。
訴訟を、両当事者構造とと見る現在の法常識から見れば、起訴不起訴の判断は起訴前の準備行為でしかなく、起訴後の裁判の結果とは全く別です。
しかし、訴訟手続がまだ存在しない時代には、捜査をした結果起訴するかどうか(二者択一です)の判断は、被疑者あるいは被害者に対する国家の重要な判断の表明ですから、重要な国家の意思表明・・・・その段階での最終決定ともいえます。
この思想を引きずっているので、今でも公訴権の乱用とか、検察官による公訴提起を重要な事実のようにマスコミも学者も宣伝します。
しかし、訴訟は両当事者の争いであって裁判所は中立の立場で判断すると言う戦後の法体系では、検察官の公訴提起は、争っている当事者の一方の申し出でしかない扱いですから、もっとその扱いが軽くていいのです。
この点は、官が無謬性にこだわる弊害として、01/28/03「止められない公共工事(無修正主義の問題点 3)」、02/01/03「刑事訴訟手続きの形式化(無修正主義の問題点7)」前後で連載しました。
つい4〜5日ほど前の日経新聞で、アメリカ滞在中に身に覚えのない交通法規違反で呼び出され、裁判所でその旨主張したら、(拍子抜けするほど)「あっさり、いとも簡単に認めてくれた」と言う感想が載っていました。
悪く言えば、ずさんな司法と言うことでしょうし、良く言えば、司法と言っても、
「お上の運営するもので、間違いがある筈がない」
と言うものではなく、簡単に修正する仕組みに感心した印象の書き方でした。
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