07/08/06
明治以降の刑事関係法の歴史7(治罪法2・・・予審判事1)
前回紹介したように、刑法と治罪法の制定で、我が国初の実体法と手続法の分離が出来上がったのですが、体系がすっきりしているかどうかは、学者や研究者の自己満足であって、実際の国民にとって使い勝手がいいかどうかは、別問題です。
明治15年に刑法と同時に治罪法が施行されましたが、形式的に見事なものが出来上がっても、実際に運用してみると、刑事罰と言うものは長年の国民的常識・慣習がものを言います。
ボワソナードは日本の気鋭の若手学者とともに、日本の実情を5年もかけて研究しながら作った筈ですが、矢張りバタ臭さが抜けなかったのでしょう。
体系的にすっきりているかどうかよりも、法律の内容が、わが国の国情にあっているかどうかが、実際の問題になってきます。
唐の律令制が導入されても、我が国の慣習と合わない分野が多く、多くの部分で実効性がなかった経験を思い出してもいいでしょう。
この点に付いては、02/09/05 「フリーター社会と女性の結婚観5(姦とは?)」のコラムでも一部紹介しましたが、性風俗一つ見ても国によって大きく違うので、刑罰も違ってくるからです。
刑罰と言うのは、その国の道徳観、ひいては日常の習慣が大きくものを言う分野です。
例えば、現在の証券取引関係法は現在のコンピューター利用による精密な取り引きを前提に、法規も複雑になっているのですが、このような社会実体のないところに、同じ法律を導入してもうまく機能しません。
民事関係では、民法典論争が広範に起こったことを、06/04/03「婚姻制度 (明治時代の婚姻制度3)13(民法典論争2)」のコラムで紹介しましたが、刑法では性質上国民各層を巻き込むような国民論争にはなりませんでしたが、刑法でも似たようなことになったのです。
こうして刑法や刑事手続法も累次の改正を経て、現行の刑法典となって、落ち着いたのが明治40年ですから、この間25年間もかかったことになります。
落ち着くまで時間がかかった代わり、良い物が出来たらしく現行刑法は、明治40年から現在まで約100年も続いていることになります。
刑事手続法は、治罪法から、旧々刑訴(明治23年)、旧刑訴(大正11年)、現行刑訴(昭和24年)となって、かなりの変化を蒙りました。
こうした改正の流れは、追って必要に応じて見て行きましょう。
治罪法では国家訴追主義や起訴独占主義を宣明し、律令系法制の名残を一掃しましたが,ボワソナードの出身国フランス同様に予審制が採用されました。
明治18年に内閣職権が出来て、太政官制度が、完全に終焉を告げたことを、06/04/06
「内閣制度の時代1(律令制の廃止)」以下のコラムで紹介しましたが、その直前の15年に、刑事法関係でも律令系の法制は終わりを告げていたのです。
予審判事が直接証拠収集に当たり、起訴不起訴を決めるというのですから、現在の検察官みたいなものでした。
ここに、いわゆる大陸法系の訴訟手続法が、1応完成したのです。
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