07/03/06

不能犯3( 刑法56)非近代精神の行方 ? 1(主観説と客観説)

少なくとも私の学んだ基本書では、定型説・客観主義刑法学でしたから、定型的に実行行為と言えるかどうかだけと言う説明でしたが、もしかしたら新派・すなわち主観主義刑法学では、もっと違った説明・・・があったのかも知れません。
主観主義刑法学では、(あまり勉強していないので知りませんが、・・・・)定型的実行行為概念ではなく、殺意と言う主観を重視します。
これも主観的何とか説とか折衷説などあって、入り乱れているようですが、いずれにせよ主観重視ですから、不能犯の成立する余地が小さくなる(すなわち有罪になりやすい)ようです。
有罪と言っても未遂処罰規定のある犯罪類型だけの話です。
不能犯のぎろんは、ある行為があったのに結果が出なかったときに、犯罪の実行に着手した者として未遂罪として処罰すべきかどうかの議論なのです。
結局は、実行行為とは何か?犯人のした行為は実行行為だったのか否かということに帰するでしょう。
不能犯論が賑やかであった学問的背景を見ますと、主観主義刑法の隆盛と関係があったのかも知れません。
主観主義刑法学は、ナチス刑法として一世を風靡した学説でしたから、戦後は、まだ主観主義刑法学者が多くて勢いを持っていました。
この時代には、行為者が殺意を持って行動している以上、その精神を重視すべきだという議論が強かったのでしょう。
しかし、この種の議論は、このころはあまり聞きません。
(勿論、私が勉強から30年以上も遠ざかっているので、知らないだけの話です)
いまどきの若い学生にとっては、「不能犯って、何?」と言うところかも知れませんが、われわれ学生のころ(昭和30年代後半です)までは、まじめに議論されていたのです。
客観説(の中の定型説)から見れば、元々実行行為でもなんでもないと言う説明のために、
     「丑の刻参りは、迷信であって犯罪に何の関係もない」
と言うと、実も蓋もないし、国民受けしないので、一応犯罪のような感じのする「不能犯」という概念が必要になった面もあったのでしょう。
前々回書いたように、いまや社会生活はかなり合理化されていますし、いわゆるウエットな怨念・情念などは社会の片隅に押しやられ・・ごく少数派だけが温存しているイメージです。
ちょうど世界宗教が発達していくと、これに押された地域の原始宗教・・土俗信仰は妖怪・・妖精にならざるを得なかったのと似ています。
世界宗教の役割については、これまで04/10/06「宗教と土俗信仰の違い1」他で書いているように異民族間で通用するルール化のことですから、結局は合理化、画一化だったでしょう。
合理化・蛍光灯で煌々と照らされる時代になれば、情念怨念など薄暗いものは市民権を無くしていきますので、被疑者のした行為が客観的に犯罪行為といえるか?どうかだけが規準であって、その中間の不能犯等論じる余地がなくなってきたのでしょう。



関連ページリンク

Powered by msearch
稲垣法律事務所:コラム:検索

検索ベースはこちらから

 


コラムTOP

リンクを当コラムにはられる方はお読み下さい

©2002, 2003, 2004, 2005, 2006, 2007, 2008 稲垣法律事務所 ©弁護士 稲垣総一郎
Design / Maintained by Pear Computing LLC



ブログ
株式投資