07/03/06
不能犯2( 刑法55)近代精神と呪詛
功利主義哲学・・産業革命後も、多くの国民の精神状況は、まだ前近代精神のままだったので、一言で「そんなの迷信だよ!」と片付けられない時代が続いていたのです。
我が国などは、戦後も30年前後・・・昭和4〜50年ころまでは、まだまだ合理性ばかりではない、因習的な雰囲気が残っていた時代であったように記憶しています。
源氏物語で有名な六条の御息所の生霊の話などは、今でも共感して読む人が多いのではないでしょうか?
学者や法律家は別として、自分の事を誰かが真夜中に呪詛していると知ったら、何か取締り出来るような法律を作ってほしいと言う感じの人の方が、今でも多いのではないでしょうか?
こうした社会精神構造を背景に刑法の教科書で、不能犯と言う独立の概念で(真面目に?)議論されていたのではないでしょうか?
我が国で、具体的に不能犯が問題になった例では、ストリキニーネを鍋に煮込んで殺害しようとした行為が不能犯かどうか争われたことがあります。
うろ覚えですが、(3〜40年前の記憶ですので悪しからず)判例は、
「すごい悪臭を発していて誰も食べられそうもないからと言って、不能とはいえない」
としたように思います。
認めた事例では、「硫黄粉末で毒殺しようとした」事例について、硫黄では死ぬ訳がないからという理由で不能犯とした判決があるそうです。
「致死量をはるかに下回る空気を人体に注射した場合」には、絶対に不可能とはいえないことから不能犯と認められなかったようです。
このように、不能と言うのも、限界事例になると難しいものです。
例えば、ピストルで相手に向けて発射したところ、その人から10センチ離れてしまった場合未遂か不能犯かと言う問題です。
殺意を持って撃った人は、相手にあてるつもりだったでしょうが、本人の主観(願望)とは別に、客観的・・結果的には、相手から10cmズレていたところを狙っていたことになるのですから、初めから当たる筈がなかったのです。
こんな事を言い出したら、未遂罪はなくなってしまいます。
未遂と言うのは、中止未遂の場合を除き、客観的に見れば客観条件を満たしていなかった場合になるからです。
そこで、未遂かどうかの区別をするために、絶対的不能説相対不能説とかいろいろ学説が分かれるのですが、浮世で忙しい人が聞けば、ま、ヒマな話だと思うでしょう。
学者の世界に、市場経済主義が入りこんだら、こう言うヒマな(緻密な?)議論は、なくなってしまうのかな?
少し、寂しい感じがしますが・・・!
呪詛やアメリカに向けて発砲するなどの行為は、今風に合理的に言えば、いくら念力をかけてもそんなのは迷信(主観だけ)であって、何の効果もないのだから、犯罪の実行行為とは見なさないと言うことになるでしょう。
ですから、不能犯になるかかどうかではなく、犯罪の実行行為にあたるか当たらないかと言うだけのことです。
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