07/31/05
検察官3(行政庁優位2)
司法省設置後に生れた検察官は、その上位者の悪を暴くために設けられたものではなく、司法省監督下におかれた裁判の監視、犯罪の捜査のためですから、おのずと限界があることが分るでしょう。
裁判を請求し、その結果に従わねばならないはずの検察官が、裁判を監視する職務を与えられ、その報告に基づき司法省が最終監督権を持っていたのです。
司法省は大審院を「司法省諸部の1」と位置付け、司法省は
「各裁判所又ハ各裁判官ニ指令スル」
権限を持ち、司法卿は
「諸裁判官ヲ監督シ庶務ヲ総判シ及検事ヲ管摂シ検務ヲ統理スルコト」
や裁判官任免権を持っていました。
裁判官は法令解釈適用の疑義については、司法省の指示を仰がねばならないものとされ、明治12年2月には、この旨の「内訓条例」さえ制定されています。
それでも心配だったのか、念のため?確定判決になってしまった場合でも、司法卿が、大審院の確定判決を
「允当ナラズ」
と思料するときは、検事をして再審請求さえ出来るようにしていました。(太政官布告明治10年第49号)
要するに事前チェックに従わずに、或いはチェック洩れで、判決してしまった場合でも、政府に都合悪ければその裁判のやり直しを命じられたというのですから、これでは裁判という名に値しない制度でしょう。
その監視・チェック役に検察官制度が設置されたのです。
但し、江藤新平の名誉のために付け加えますと、このような監視制度は、中央の近代化が進んでいて、地方各県の能力がイマイチであった時代には、中央でチェックしないとどのようなひどい判決が出るかも知れないと言う危惧があったのは仕方がないでしょう。
明治初年は、中央で各藩県向けに刑事の準則の整備に必至だった事情も紹介しました。
時の権力者が抑圧するためではなく、人権救済のための制度だったのです。
地方裁判所は、死罪の判決をするには大審院の許可が必要とされ、無期懲役刑も事前の許可後でなければ判決できないるなど、元は人権救済目的の制限だったのです。
下からの近代化でなく、啓蒙的近代国家の宿命だったでしょう。
しかし、地方制度が徐々に完備していき、地方にもレベルの高い判事が順次配備されていきますと、この当初の監視機能が不要になったのです。
不要になった制度を温存したくなるのが、官僚制の本質で、(パーキンソンの法則です)次第に体制翼賛の方向へ検察機能が変質していったのでしょうから、江藤新平の責任ではありません。
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