07/29/05
明治以降の刑事関係法の歴史3(清律3)
新政府としては、王政復古の大号令と言っても、一種の本領安堵した建前ですから、各大小名に刑事裁判権を任せるしかなかったのです。
それにしても、各領主ごとに刑罰が違うのでは、中央集権国家として問題です。
これでは新政権の意味がないばかりか統治が混乱しますので、仮刑律を各府県に頒布すると同時に、政府は本格的な刑法典の編纂を計画して、旧幕時代の裁判記録や明清律の研究を始めます。
明治2年3月には刑法官(役所の名称です)で始めて組織的に編纂作業を始め、明治3年2月には原案がまとまりました。(凄いスピードです。)
これを新律提鋼と言います。
これが若干の修正を加えられて、同12月27日
「内外有司其之を遵守せよ」
という上諭を付して、新律綱領と言う名称で全国各府藩県に頒布されたので、これが正式な法典の最初です。
ただし、これは内部でも暫定的な法典としていたので、頒布と同時に改定作業に取り掛かり、明治6年には改定律例が出来上がります。(7月10日頒布)
改定律例は、新律綱領頒布後政府が単行法でどんどん禁令を出したものを補充して新律綱領の思想を敷衍した修正版という位置付けのようです。(だから改定律というのでしょう)
なお、法典編纂作業は、刑法官廃止後は、刑部省に引き継がれ、さらに司法省へと引き継がれていくのです。
これまでの法典は、名称から言って「・・・・・律」という特徴があることから分るように、この時点までは古代の律と同様に、清の法を直接継受して作られた刑事法だったようです。
条約改正の必要が唱えられていたのに、時代錯誤な律令学者が中心になって、編纂作業をしていたのが不思議だと言う解説がありますが、王政復古・・懐古趣味はここまでが限界だったとも言えるでしょう。
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