07/28/05
明治以降の刑事関係法の歴史2(清律2)
前回紹介した各法令のうち、手続法と刑事実体法とを、明確に分離できたのは、4番の治罪法からです。
この治罪法と同時に旧刑法が施行されて、以来実体法と手続法が別々に改正され、或いは、新しく付け加えられていきます。
明治維新は政権が変わったというだけではなく、あらゆる分野で、西洋からの刺激を受け、試行錯誤を繰り返し・混沌としながらも変化していった時代でした。
家で言えば骨組みに当たるのが法制度ですから、先ず、これを国民に示さねば、新政権がどう言う方向へ進もうとし、どう言う性格の政権であるかの基準を示せなかったでしょう。
特に変革期の社会では、先ず必要とされたのが刑罰関係法、つまり治安を維持し、国家権力を確立するための法律です。
そこで明治新政府は1868(明治元)年に仮刑律、70年には新律綱領、73年には改定律例と、立て続けに刑法典を制定したのです。
仮刑律は、刑法事務局時代に「清律例彙纂」と「刑法草書」(多分熊本藩のものでしょう)を参考にして養老律や公事方御定書などを参酌して熊本藩関係者の手によって編纂されたと言われています。
これは一般に公布する性質のものでなく、政府部内の準則として誕生し、府藩県からの伺いに指令の基準として機能していたものでしかなかったので、法典の前段階のものでした。
そこでこれら内部準則に関しては、今でいう法令とは言い切れませんので、前回のコラムでは、△印を付しました。
1方で政府は、この時期に綱吉みたいに次々と禁令を定めていたようです。
5か条のご誓文を発したその翌日、旧幕府の高札を廃し、(私の依頼者で元庄屋か名主の家があって、五箇条のご誓文の高札を保有していますが、当時は高札で、国民に知らしめていたのです。)強訴、逃散など財政的基礎を脅かす行為、キリスト教など五輪の道或いは神道に反する宗教を禁じ、外国人への加害行為などを禁ずる「5榜の禁令」を各地の掲示しています。
この他にも、暗殺、あへん、贈収賄、贋金つくり或いは無断書籍発行などなど、動乱の時期ですから次々と出しているのは仕方がなかったでしょう。
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