07/25/05
明治以降の裁判所の設置6(大審院と3審制の確立)
1875年明治8年4月になると、大審院が設置され、(5月24日開庁)その下に上等裁判所(今の高裁)府県裁判所(今の地方裁判所)が置かれ、裁判機構が整備されます。
これが現在の裁判システムの原型となります。
(と言っても、これまで書いて来たように、このころはまだ現在のような都道府県制度にまで統合が進んでいたわけではないので、これは紙に書いた機構図が完成しただけのことでしょう)
府藩県裁判所には、判事長のほかに判事、判事補など数人が配置されることになっていましたが、
「別に裁判所を置かざる県は地方官判事を兼任す」
となっていて、かなりの県では、行政官の県令・参事が兼任していたのです。
県令や参事の兼任とは、言い換えれば昔からの領主裁判権が県令や参事と変わっただけで、結局は行政官の兼任ですから、領主裁判権と同質でしょう。
江戸時代にも領主・殿様自身が裁判をしていたのではありません。
上席家老が大参事と言い換えられ、次席以下が参事と言うようになっただけです。
それにしても、各府県の判事がわずかに数人とは、少ないのに驚きますが、今から考えると、争いの少ない平和な時代だったのでしょうか?
私が、昭和40年代半ばに司法修習生として宇都宮地裁で実習していたときの刑事部は、裁判長以下合計3名しかいなくて、その他に大田原や足利などの支部に1名前後づついただけですから、明治初年とそれほど変わらなかったかもしれません。
またどこかで紹介しましたが、わたしが弁護士になったばかりの昭和40年代末ころの千葉地裁本庁の刑事部の裁判官数も1合議部と単独判事一人の4人体制でしかなかったのですから、明治初年とそれほど変わっていなかったようです。
ちなみに、私が千葉で登録したときの弁護士数は90人台で私達の加入でやっと100人を越えたものでしたが、今では3百数十人になっており、刑事部は、4合議部になっていますので、この30年余りの間の事件増加ぶりには驚きです。
千葉県人口はこの間に370〜380万から600万あまりに増えただけですから、倍増さえしていないのです。
民事は人口増に比例しなくとも経済活動の活発化によるのは分るし、受け入れやすいのですが、刑事事件まで人口比でなく経済活動に「正」比例して増加するのはどうかと思います。
(少し増えるのは、仕方ないと思いますが・・・)
まして、府藩県と言っても、今のように大規模になるのはずっと後のことで、最初のころは、明治4年に統合できたところとまだ出来ていないところがあって、今の郡程度にも至らない小規模な県も多かったのですから、その一つづつに裁判所を作るのは、無理があったかもしれません。
ちなみに、明治4年秋における大統合時の千葉県の様子をみますと、
木更津県が
安房国一円 上総国一円と指定されていますが、下総の国は以下の通りで、まだ1部は手付かずです。
印旛県 県庁佐倉
下総国
結城郡 猿島郡 葛飾郡 相馬郡 岡田郡 豊田郡 千葉郡 徳生郡 印旛郡
しかも、このうち結城郡 猿島郡、相馬郡などかなりの部分は、その後茨城県になっています。
この中で現在千葉県内で、私に分るのは千葉郡 印旛郡、葛飾郡 くらいです。
この結果9年9月には、2県または3県を合して1裁判所を設けることが出来るようにし、各府県裁判所を廃して(現在に続く)地方裁判所と改称します。
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