07/25/05
明治以降の裁判所の設置5(行政府優位の体制の始まり)
明治5年4月江藤新平が、今の小泉総理同様の急進的な改革構想を引っさげて空席の初代司法卿に就任すると、彼の持論である全国統一の3権分立論的な構想で急速に展開していきます。
(小泉総理は、持論・・郵政民営化)が駄目なら解散すると言っていますが、江藤さんはその後下野してしまうのです。)
彼は就任後の5月20日には、全国の裁判事務統合のために府県裁判所設置構想を発表し、同22日には、仮の基準として「司法事務」全5条を定めています。
これにより、現在に連なる司法行政作用と裁判作用の分離が決まったのです。
明治5年5月27日には、(府県裁判所の上位になる)中央の裁判機関として司法省裁判所が設置されましたが、(ホンの1週間に一回の割合で新しい制度や規則を作っていたようです)手足となる府県の裁判所の設置は遅々として進まなかったようです。
これには、各府県の財政的事情や既得権(転官)の問題もあったようです。
(郵政民営化も、結局はそこで働く人の問題が、反対運動の蔭のエネルギーでしょう)
同月27日に中央の裁判機関として、司法省裁判所が設置され、ついで同年8月3日「司法省職制並に事務章定」(司法職務定制と略称されます。)22章108条を定めて、裁判所・検事局・明法寮に分掌させます。
更に裁判所を分けて、司法省臨時裁判所・司法省裁判所・出張裁判所・府県裁判所・各区裁判所の5種として9月1日より施行しています。
司法省臨時裁判所は「国家の大事に関する県と、裁判官の犯罪」を審理するもので、臨時判事がこれに当たり、司法省裁判所は、府県裁判所の上訴機関でした。
府県裁判所は各府県に設置するものであったものの、この設置は実際は進まず、この年には東京府を含めて、3府13県(入間県などがあるので、前回紹介した統合前です。)に設置できたにとどまりました。
地方官が強く抵抗した理由には、裁判事務の移管に対するだけでなく、府県裁判所設置に伴う捕亡事務(警察権)の検事への委譲問題にあったといわれます。
府県裁判所の所長には判事が当てられましたが、聴訟(民事)断獄(刑事)を分掌する解部には、従前の府県の断獄課・聴訟課の典事らが任じられて裁判をすることが多く(転官措置)、裁判所未設置県では県令、参事による裁判が行われていたことも抵抗の大きな理由だったでしょう。
司法職務定制は、司法卿が全国の裁判事務一切を事務を総括することになっていて、中央の司法省裁判所の所長を兼務することになっていました。
司法卿に直結する検事に個々の裁判を監視する役割を与えるなど、司法卿(すなわち省のトップです)が、究極の決済権者と言うのでは、行政府が最終判断をする仕組みを造ったことになります。
当時各藩ごとにレベルが均一でなかったことや刑事実体法や手続法自体が未整備でしたから、彼としてはむしろ進んだ制度を早く根つかせるために、中央のでの統一監督が必須だったでしょうから、学者の反応は好意的です。
しかし、この当面の考えが事実上継続して敗戦まで続くのですから、制度の始まりは重要です。
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