07/22/05
明治以降の裁判所の設置4(与力の流用)
東京では、この事実上の取り締まり機構が存在していたものと思われますが、一日も早い正当性のある機構の設置が要請されていたこともあるでしょうし、既存の従事者がいなくなっているのですから、(後述のように臨時に雇ってはいたでしょうが)抵抗勢力が弱かった点もあるでしょう。
新政権の統治は、江戸城明渡し直後には軍政だったでしょうが、軍人が地道な犯人の検挙や取調べが出来る訳がないのですから、1定期間の経過で行き詰まります。
彰義隊などの武辺ものの旗本崩れが、道路端での乱暴狼藉に対し、「オイこら」と制止することは出来るでしょうが、犯罪は隠密裏に行われるのが大半です。
彼らが、地道な犯罪捜査など出来るわけがないのです。
軍人である武士が、そういうことに不向きであることは、「08/10/04旗本と与力11(軍と捜査機関の分離1)の連載コラムで紹介しました。
そこで、与力は元々徳川の外注組織式であるからと言う理由で、もしかしたら、奉行所のうち奉行だけが罷免されて、実務能力のある与力以下はそのまま官僚機構として利用継続されていたのではないかと言うのが私の推測です。
与力については「08/10/04旗本と与力11(軍と捜査機関の分離1)寿命と適応力」前後で連載していますが、元々彼らは、幕府権力機構の外注扱いでしたから、徳川の崩壊と運命をともにする必然性がありませんでした。
このようにして、これまでは江戸町奉行の機能を承継した何らかの東京府の施設で、裁判や処刑が事実上(何の法令もないまま)行われていたのでしょう。
それにしても、諸藩では従来どおりの藩法の裏づけがありますが、江戸や大阪など徳川直轄地では、逮捕したり処罰する根拠法令がないままの、実力支配をするしかないのですから、それでは困っていたでしょうから、根拠法令、正統性の裏づけを早く欲しかったでしょう。
イラクでやっと政府が発足しましたが、その前の警察権力は何に基づいているの?と言うのと同じ疑問です。
それまでのアメリカ軍のゲリラ摘発攻撃・自衛隊の駐留その他の行為は、超法規的処置と言うところでしょうか?
江戸・東京に最初の裁判所が出来た江戸・東京に最初の裁判所が出来たのは、彼ら与力が市民を検束するには、1日も早い大義名分(正統性)のある組織の確立が急がれていたし、与力は実際役に経つ者だけが再雇用されていたでしょうから、諸藩のように従来従事していた者の人員整理という、厄介な抵抗勢力もいなかったものと思われます。
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