07/22/05

明治以降の裁判所の設置3(日本最初の裁判所設置)

中央の官制が大方お分かり戴いた所で、以下、裁判所関係に話を戻しましょう。
少し細かくなりますが、版籍奉還(明治2年6月17日・・太陽暦:1869年7月25日)後の明治2年7月に職員令が定められ、刑部省が刑事裁判事務を、民部省が民事裁判事務を、そして弾正台が行政監察と官吏糾弾の事務をそれぞれ管掌することになりました。
そうは言っても、この時期にも断獄(刑事)聴訟(民事訴訟)の事務を実際に行ったのは、府県藩であったのです。
(今のように国家公務員を全国に派遣したくとも、人材がなかったでしょう)
改組が目まぐるしいのですが、考えようによってはこのころは担当部署名を観念的に変えていただけで、現場を持っていなかったので、いくらでも簡単に改組できたとも言えるでしょう。
明治4年7月9日には、刑部省と弾正台を廃止して、司法省が設置され、刑部省と弾正台の事務一切を引き継ぎ、「執法申律折獄断訟捕亡」のことを司るとされます。
廃藩置県の同年7月14日に知藩事が罷免されますが、大参事以下の職員はそのままであったことは廃藩置県のコラムで紹介しました。
同年9月には大蔵省から民事裁判事務も移されますが、司法省が全国の裁判事務の統合をするためには、従来の府県の裁判事務の接収が不可欠であったのですが、そこからは政治実務そのものですから、その実現が長引くのです。
4年8月には、東京府から裁判事務を接収し司法省官員さんが出張して裁判事務を処理することになり、同12月27日に初めて東京裁判所が置かれたのが、わが国の司法裁判所の最初です。
東京の裁判所が最初に出来たのは、新政権のお膝元であったと言うだけでなく、既得権者・抵抗勢力が皆無だったことが大きいでしょう。
徳川直轄地以外の藩は、廃藩置県になって藩主だけ免職されましたが、それ以外の家臣は、家老が参事などの名称に変わってもそのままでした。
徳川直轄地以外では、まだ従来の奉行所などが残ったままで、旧来の裁判権がそのまま機能していたのに対し、江戸・東京では、江戸城明け渡し以降徳川家がいなくなったのですから、奉行所などの取り締まり機構が本来(事実上動いていたのです)消滅していたのです。
(彰義隊発足の来歴からも分るところでしょう。)
それにしても、まさか動乱の時期に4年間あまりも、犯人の検挙も処罰もしないで放置できていたわけがないのです。



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