07/21/05

政体書と中央組織

政体書の地方版だけでなく、この辺で中央の組織がどうなったかも紹介して置きましょう。
年号が混乱するでしょうから、この辺で紹介しておきますと、慶応から明治への改元は、慶応4年9月のことでした。
このころは、まだ大陰暦ですから、間違いないように太陽暦もときどき入れておきましょう。
政体書発布から地方組織の話に逸れてしまいましたが、もう一度中央の組織に話を戻しましょう。
政体書発布(1868・4)「で天下の権力が太政官に帰す」となりました。
先ず「政体」とはこれに先立つ五箇条のご誓文を踏襲すると言う宣言です。

政体
一 大ニ斯国是ヲ定メ制度規律ヲ建ツルハ 御誓文ヲ以テ目的トス
 一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決ス可シ
 一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
 一 官武一途庶民ニ至ルマテ各其志ヲ遂テ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス
 一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基ク可シ
 一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ 皇基ヲ振起ス可シ
 右 御誓文ノ条件相行ハレ不悖ヲ以テ旨趣トセリ去冬 皇政維新纔ニ三職ヲ置キ続テハ八局ヲ設ケ事務ヲ分課スト雖モ兵馬倉卒之間事業未タ恢弘セス故ニ今般 御誓文ヲ以テ目的トシ政体職制相改候ハ徒ニ変更ヲ好ムニアラス従前未定之制度規律次第ニ相立候訳ニテ更ニ前後異趣ニ無之候間内外百官此旨ヲ奉体シ確定守持根拠スル所有テ疑惑スルナク各其職掌ヲ尽シ万民保全之道開成永続センヲ要スルナリ
  慶応四年戊辰閏四月   太政官一 天下ノ権力総テコレヲ太政官ニ帰ス則チ政令二途ニ出ルノ患無カラシム太政官ノ権力ヲ分ツテ立法行政司法ノ三権トス則チ偏重ノ患無カラシムルナリ
慶応4(明治元)年閏4月21日 (太陽暦:1868年6月11日)

以上の政体書によって太政官制が取られましたが、1869(明治2)年8月15日の官制改革によって太政官は、立法・行政・司法の三権に分けられ、祭政一致の復古制により太政官の上に、と言う書物もあれば、同等と言う書物もありますが、ともかく神祇官が置かれました(2官6省)
1871(明治4)年9月13日に太政官は、正院(太政大臣三条実美-さねとみ)・左院(左大臣島津久光)・右院(右大臣岩倉具視)に分かれ、その下に8省が置かれました。
このとき職務がはっきり分れ、参議は審議立案者、右大臣と太政大臣は、その決裁者となったようです。



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