07/21/05

藩の消滅4(廃藩置県5と華族制度)

このとき同時に華族制度創設で宥めればよかったのですが、華族制度は政権が危機感を抱いてから急いで思いついたものですから、明治17年(廃藩置県から実に13年も経ってから)やっと出来たものでした。
「廃藩置県」と簡単に学校で習いますが、旧来の領主・藩主が無能を理由に一斉に解雇されたのですから、一人一人の人間にとって、耐え難い屈辱だったでしょう。
この屈辱を受けて初めて、久光は大政奉還後鳥羽・伏見の役を起こした徳川の気持ちが分ったでしょう。
政府の心配した軍事蜂起は一件も起きず、せいぜい島津久光が憂さ晴らしに邸内で花火を打ち上げたくらいで終わったと言われています。
この恨みが残って、なぜか文学者や講談師を味方につけて、もう120年も経っているのに江戸時代ものといえば、○○藩のお家騒動などと言う表現が続いているのではないでしょうか?
政体書(慶応4年4月・・明治元年は同年 9月です)で、初めて「藩」という行政単位を決めたものの、そのわずか1年後の明治2年には版籍奉還で「藩主」と言う言葉がなくなり、3年後の明治4年には藩自体をなくしてしまったのですから、「藩」とか「藩主」と言われたのは、歴史上ホンのわずかで、殆どないに等しい短い期間だけだったのです。
吉永小百合主演の「北の零年」という映画でも、鳴門藩と言うのが当然のように出てきますが、本当は上記のとおり、藩であったのは、流れ星のような瞬間のことでした。
政府は先ず、殿様・藩主を始末して、その後は家臣の秩禄処分に進んでいくのですが、この点は既に、
06/19/04「明治政府の合理化1(廃刀令と家禄制の廃止)金禄公債証書1」以下で連載しました。



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