07/20/05
藩の消滅3(版籍奉還と知藩事)版籍奉還のときは、奉還する以上は従来の藩主が藩主ではなくなりますが、直ちに藩の知事になれることが暗黙の了解事項でした。(大政奉還の慶喜の思惑と同じです。)
以下は、薩長土肥の建白書(明治2年1月20日(太陽暦:1869年3月2日)です。
願くは朝廷其宜に処し,其与可きは之を与へ,其奪可きは之を奪ひ、凡列藩の封土更に宜く詔命を下し,これを改め定むべし。」
この版籍奉還では、版籍(人民支配権と領土)を奉還してしまったのですから、知藩事は固有の領主権を失い、形式的には政府から任命されて派遣される県知事と法的には、同じことになっていたのです。
そのうえ、藩「主」(オーナー)から「知」藩事になったこと自体で、文字の上でも官吏の一人になったことが明らかなのです。
知藩事と言うのは、宋時代の地方長官の権知○○(この部分は人名です)県事の簡略化で広まったものですが、王朝から派遣された官吏を言うものです。
それ以外にも、わが国で多用されていた「知行」とは、主君から分知された領知をいうものですから、いずれにせよオーナー支配を意味するものではありません。
その意味では、新憲法下での県のトップは政府任命でないのに、明治憲法下の「知事」の名称にしたのは、戦前の思想を少しでも残したい勢力の陰謀だったでしょう。
戦前は官選知事で、戦後は民選知事と、言うのはごまかし・矛盾でしょう。
廃藩置県以前にも、明治3年9月10日(太陽暦1870年10月4日)に公布された藩制では、藩庁の職制を政府直轄地の府県と同様のものとした上で、(旧来の家老などは参事と変更するのです)藩財政についても歳入の10%を知藩事自身の収入(家禄)として、残りを藩庁経費と藩職員の俸給とするなど,その運用に大きな統制を加えるものでした。
このように組織も政府の言うとおりに編成しなければならなくし、財政面から各藩が独自のやりかたで、藩の運営を行うことができなくしていったのです。
藩が大名の領地ではなく、政府の地方行政区画に過ぎなくなったことを知らしめるものだったでしょう。
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