07/19/05

藩の消滅(廃藩置県1)

毛利藩とか長州藩・防長2州(高杉など志士は、このような表現をしていました)或いは鹿児島藩・薩摩藩・島津藩、仙台藩・伊達藩などと、いろんな呼称が物語で並立する理由も、当時は○○藩と言う言い方が一般的に存在しなかったからです。
明治の政体書以降万石以上の領知を「藩」といわれるようになったに過ぎないのに、小説では江戸時代からあるかのように書くから却って混乱するのです。
このように物語では流行している「藩」概念ですが、実際使われていた寿命は意外に短くて、廃藩置県(明治4年7月14日(太陽暦:1871年8月29日)で、藩が自動的に県と読み替えられて、あっさりなくなってしまうのですから、政体書発布以降わずか3年しか「藩」概念は存在しなかったのです。
何故、こんな短命な「藩」概念が、昔からあるように物語で語り継がれるのでしょうか?
一つには、後年の民権運動の高まり・憲法発布機運の高まりで危機感を抱いた政権側で、皇室が直接国民と接しないための「藩屏」として、明治17年7月7日華族令が制定され、華族制度制度が創設されたことにあると思います。
政権としては、以下に紹介するように旧藩主、諸大名をだまし討ちのようにして、粗略に扱ってきたのですが、民権運動が強まり平等意識が強まってくると、天皇家だけでは丸腰、本丸だけ孤立する感じがしたのでしょう。
大日本帝国憲法公布は明治22年2月11日ですから、枢密院とともに憲法制定前の急ごしらえの制度でした。
そこで、四民平等の勢いが天皇家・皇族に及んでは困りますので、「身分社会はここにもあるよ」とばかりに外郭陣地、外堀として利用することを思いついたのです。
以後皇室の外周・文字とおり藩屏として、位置づけられて、「華族は皇室の藩屏」と言う言葉が、しきりに使われ、持ち上げられて戦後に至ったのです。
そこに歴史上わずか3年しかなかった藩概念が強固に浸透した原因があると思われます。
更にウガッタ見方をすれば、敗戦した以上は民主化でもなんでも受け入れるが、天皇制だけは譲れないと言うのが、国体護持論者の最後の本丸・核心でした。
こういう立場の人たちは、「藩」という言葉・藩を含む熟語を少しでも残したい意識が働いていたこともあるかも知れません。
華族の自伝やその他の文章で、「自分は皇室の藩屏として・・・ねばならないと悩む」述懐が多いのです。



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