07/19/05
藩の始まり(政体書)1
ところで、幕藩体制とか・・・藩と言う呼称が、昔からあったと思っている方が多いと思いますが、(幕府概念については、03/15/04「幕府概念の破綻6」前後で連載しました。)この政体書で、今でいう「藩」という呼称が公式に使われるようになったのです。
実はこれまで藩という概念は一部使われていましたが、公式にはだれそれ領分・領知(知行地のことです)といわれていただけで、「○○藩」とはいわなかったのです。
「藩」というのは、後年華族制度は「皇室の藩屏」と言われるように・・すなわち生垣などで囲うものですが、大名や旗本領はあちこちに飛び地になっていたのです。
これでは囲うことが出来ませんので、元々江戸時代には、藩と言わなかったことが分るでしょう。
誰それ領分となれば、あちこちに飛び地があるのが原則と言ってもいいくらいで、何ら矛盾しません。
これが江戸時代の現実でしたから、だれも領知のことを藩とは言わなかったのです。
昨年の地震で困っている山古志村を支配していた長岡藩(当時は長岡藩とは言わずに単に牧野家と言っただけでしょうが、一般に従ってここでは書いています。)も、かなり離れた新潟港という港町を領していました。
大岡越前の西大平藩なども、旗本から徐々に加増されたので1万石と言っても、あちこちに少しずつでですし、佐倉藩なども神奈川県その他に飛び地を持っていました。
うっかりすると本拠地よりも飛び地の方が、領知が大きい「藩」さえあったのです。
このおかげで、一つの村がいくつもの藩の領知になっていましたから、明治維新当時、藩主にその藩の政治を一任するとしても当面はこうした飛び地経営しかなかったのです。
ですから、知藩事とか県令と言っても、最初のころはあちこち飛び地の長官でしかなかったのです。
今から考えれば滑稽なことですが、例えば神奈川県の何とか村の一部は、今の千葉県の佐倉藩領と栃木県の烏山藩領と旗本領に分れていました。
各藩がその後廃藩置県で即時「県」と改称されるのですが、その村は、佐倉県、烏山県と神奈川県(旗本領は順次接収されましたので、政府直轄地として神奈川県になっていました。)に分かれた地名?(佐倉県何とか村)で呼ばれていたのです。
江戸時代には前記のとおり何々藩とは言わずに、何々村の中の誰それ領と言うだけでしたから混乱しませんが、今度は一つの村が三つの地名で呼ばれるのですから、訳が分らなくなります。
(村と言っても、今の大字くらいの大きさですから大変な事態です。)
12/08/03「千葉の歴史6(千葉県と江戸時代の知行地・・行政単位)」のコラムでも、御家人などの領知が一つの村で入り乱れていて、村の行事を(祭りや道路普請等)するのに支障があったことを紹介しています。
こういう状態では、「各藩や県ごとに地方裁判所を作れ」と言われても、何も出来なかったのが分るでしょうし、数万石程度の小大名では経済的に何も出来ませんでした。
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