07/18/05
明治以降の裁判所の設置2(3治政治体制)
もう少し細かく見て行きますと、新政権では、慶応4年正月に刑法事務科が設置されたのに始まり、同2月には刑法事務局に代わります。
同年閏4月(太陽暦の6月11日)には、有名な政体書が発布されて、同時に刑法事務局が廃止されて新たに刑法官が設置されて断獄(刑事裁判)事務を司るようになりました。
ついでに裁判所とは直接関係がありませんが、慶応4(1868)年閏4月の「政体書」の発布が、歴史上重視されていますので紹介しておきましょう。
このとき実働していない上記の3職を廃止し、太政官制度が発足します。(これは後に地方組織のコラムを終えてから少し触れます。)
王政復古は、まさに抽象的な「大号令」でしかなかったのですが、ここに始めて政府として機能する体制が整ったことと、朝廷直轄地の府県と藩のいわゆる「3治政治体制」が発足したことが明治維新の具体的出発点となったのです。
この3治政治体制と言われるものが、地方組織の先祖みたいなもので、順次、版籍奉還、廃藩置県、府県藩の統廃合を経て現在の地方組織(都道府県)になっていくのです。
地方政治といえば、今では、大したことがないようですが、政権を取ったばかりのときには外交以外の内政と言えば地方以外に政治対象がないのです。
当時(と言うか、今までも革命政権では、地方・内政の掌握は最初に必須のことでしょうし、小泉さんも内政である郵政民営化問題で解散すると騒いでいるのです。)は、地方をどうやって治めるかが、政権の関心の99%だったのです。
外交も重要ですが、先ずは内政固めが先行するのですが、ご一新で王政復古・中央集権にする以上は地方組織の改変が最重要課題でした。
直轄地といえば、大都会だけのようなイメージですが、戊辰戦争後に、先ずは旗本領から順次接収していきましたが、これは後に述べるように一つの部落に何人も領主がいるような経営困難な領知が殆どでした。
その上廃藩置県以前にも、小さな藩では、政府からの「あれやれ、これやれ」の財政負担に耐えかねて、自ら投げ出してしまう弱小藩が(例えば長岡藩や盛岡藩など)多かったので、これらが直轄領に順次み込まれていったのです。
要するに、今でいえば経営破たんした企業ばかり公的資金で抱えているようなものでした。
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