07/01/04
近代オリンピックの存在意義
西洋で産業革命が進行すると、士族層・騎士層の武術が不要になっただけでなく、下層労働者の肉体労働までもが次第に減ってきた状況になりました。
こういう時代背景下で近代オリンピックが(1896年第1回アテネ大会)誕生したと言えるでしょう。
そのころは、クーベルタン男爵の提唱によることからも明らかなように、マラソンは例外かもしれませんが、基本的には、エリートの為のスポーツの祭典でした。
馬術、フェンシング、テニスその他当時の庶民には関係のない種目が多かったことからも分るでしょう。
我が国でも、歴史的長さから見れば、つい最近といえる野球の長島茂男が活躍したころを振り返りましょう。
彼は、六大学野球のスターとしてデビューしたのですから、(当時の大学進学者は、今とは比較にならない程のエリート層でした。)要するにエリートのスポーツだったのです。
幕府は、平和な時代が来て体力を持て余していた旗本奴白鞘組(水野十郎左衛門と町奴幡随院長兵衛の争いは有名ですからご存知の方が多いと思います。)などの体制内不満分子や浪人対策、明治政府は不平士族対策などエリート層の脱落者に気をつければ政治が出来たのです。
その後大衆社会の到来とともに、労働者・大衆は選挙権をもって政治の世界に登場したばかりか「くたくたになるまで働けばいい」という時代が終わりました。
労働運動の成果と言うよりも、機械化が進み更にはコンピュ―ター化時代となって、労働=体力を酷使する時代が終わってしまったのです。
こうなると、江戸時代の武士(西洋では中世の騎士)に対すると同様に労働者大衆の体力のもてあましと、フラストレーションを無視できなくなってきました。
庶民向けのスポーツ、それの祭典が必要な時代が到来したのです。
下層階級のスポーツとなれば、様式美・横綱の風格など言ってられませんので、際限ない体力競争・すなわち若年化が進みます。
オリンピックの存在意義を政治的不満の捌け口として考えれば、現在でも参加資格をアマチュアに限るのは、現在の底辺層の体力のはけ口という存在意義に反していることになります。
最近プロ野球選手が、オリンピックに参加出来るようになったのは、必然の結果とも言えるでしょう。
サッカーでもそうですが、庶民のためのスポーツ時代ですから、プロを締め出していたのでは成り立ちません。
書籍の読者層は、その広告内容の分析で読者層が推定できますが、いろいろな趣味の広告は、社会層と必ずしも一致していませんので一概に言えませんが、人材募集や不動産広告ほど経済的階層を表すものはないでしょう。
こうしてみますと、スポーツ新聞の人材募集を見ますと、殆どが肉体・末端労働者の募集ですし、マンションやアパート経営の募集は(日経などには出てますが)ありません。
スポーツは、政治的なフラストレーションのはけ口として始まったと言う視点で見れば、いまや、貴族層はその対象では有りません。
勿論、今でも上流階級はゴルフ、乗馬、登山その他昔ながらに楽しんではいますが、彼らは、正真正銘の遊びとしてやっているのです。
勿論例外はありますので、私は大方の流れ・社会現象を言ってるだけですので、お間違いのないように願います。
オリンピックは参加することに意義があるのではなく、存在する価値があるから続いているのです。
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