06/05/08
らい予防法の歴史5
それがいつの間にか、法の精神を離れて収容自体が自己目的化して行き、これに従わないものは強制連行する、逃走すれば処罰すると言うように変わっていったのが不思議です。
呼び込みが激しくて、いったん店に入ると途中で返してくれない暴力バーみたいです。
これは、単に客の呼び込み・・職域の維持拡大に熱心だったと言うだけではなく、次第に強まっていった社会防衛思想や、民族浄化思想や風潮と無関係ではなかったでしょう。
いったん組織や施設ができると、役人の職域維持・権限拡張欲求(被収容者が少ないと困るからです)および彼らの人権意識の低さと被害を受けるほうが極度に弱い者であったという事情が相俟って、法律を離れて・・法律で認められていないのに、それ以上に強制までする方向へとめどもなく進んでしまったのでしょう。
ところで、05/15/08「公立病院設置と国民優生法」以下で書いてきた国民優生法は、昭和15年(1940年)に初めてできたものですが、この法律には、らい病は、その対象として明記されていません。
それにもかかわらず、らい病者にたいする優生手術が実施されていたのは、らい病は遺伝性疾患に該当すると言う虚偽の学説が、国際医学会の常識に反して日本でだけ通説になっていたからでしょうか?
でも遺伝性病気と言うなら、隔離する必要がないのです。
後に紹介する光田健輔氏によって、優生法の制定される25年も前の1915年から、ライ療養所では、優生手術が違法に実施されていたことから分かることは、法があろうとなかろうと、強制隔離し、生涯出られなくしてしまった被収容者・・極端な弱者に対して、そこに君臨する人はやりたいようにしたいと言う意識の先行でしょう。
このように、ライ病者は、社会的弱者で感染症であるから隔離するという政策理由と劣悪遺伝を断つための断種手術・・遺伝でなければ意味がありません・・の対象にするのは、矛盾した政策ですが、これが戦前のヒステリックな無茶苦茶な時期だけではなく、戦後さらに強化されて、ついこの間とも言うべき平成8年まで認められてきたのは不思議です。
このコラム読者でも、若い人にとっては、平成8年はだいぶ前のことでしょうが、たとえば高度成長期も終わりに近づいた昭和47年(1972)に、小野田元少尉がフィリッピンから帰国したときには、とっくに戦後は思っていたと思っていた多くの国民が本当に驚き、また感激したものです。
私だけでなく、そのころは経済大国なってからも久しく、そのずっと前から先進国の仲間入りしていたのです。
それからさらに約25年も後まで、戦前の悪しき体制が続いていたのに驚くのは私だけでしょうか。
こんなに長く非人道的なことを続けることを可能にしたのは、戦時中(昭和15年)制定の国民優生法にも書けなかった、らい遺病者に対する優生手術の合法化が、戦後の優生保護法3条1項3号で実現したことにあるでしょう。
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