06/14/06
軍国日本形成の法的基礎2(傀儡1)
わが国では古来から合議制の習慣でしたから、ピラミッド型の太政官制では、実務をやるのには、無理があったのです。
この結果、王政復古とは言うものの、明治18年の内閣職権の成立時に、太政官制度が完全に廃止されたことを、06/04/06「内閣制度の時代1(律令制の廃止)で説明しました。
明治政府は、実際に国家を運営して行く以上は、約700年間武家政権で行われてきた、合議・閣議制を採用するしかなかったのです。
朝廷外にあった閣議を朝廷内部に取り込んで「内」なる「閣」とした代わりに、天皇直属の軍部代表もその中に送り込んだのが明治憲法であったと言う訳です。
イギリスの議院内閣制、あるいは、フランス革命政権を見ても分ることは、議会軍と王党軍の戦いで議会側の勝利に終わった場合、負けた王党派の軍の代表をその革命政権に送り込むなどは考えられない所です。
勿論王党派の軍は縮小されるか消滅してしまって(王様まで殺されます)、議会派の軍が、近衛兵まで組織することになるのが普通です。
日本では、西洋のまねをして民選議会設立運動・・ひいては議会多数派による政権運営を目指しましたが、元々王権に対抗する議会もなければ、王党派と戦う議会派の軍もいないし、革命によって政権を奪ったのではなかったのです。
観念だけ西洋のまねをして議会設立運動をした結果から、天皇直属の軍がそっくり温存され、議会派の軍は皆無ですから、逆に議会のお目付け役として軍が天皇側から送り込まれ・・こう言う半端な結果になったのでした。
明治政権にこれといった失策がなく、政権転覆の必要性もないのに、西洋の模倣で始った民権運動でしたから、妥協の産物と言うか、外形だけ真似した結果奇形的な関係ができ上がってしまったと言えるでしょう。
もっと言えば、実力もないのに、家柄だけで形式的権力を握っていた皇帝が中国の歴史でいくらもいますが、これと似ています。
日本で言えば、信長に対する足利義昭みたいなもので、政権を取るほどの実力もないのに、民選運動家は、西洋では「こうだ式」の新たな錦の御旗として、政権担当を要求していただけですから、薩長土肥政権のお情けで出来上がった傀儡政権であったとも言えるのです。
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