06/10/06

明治憲法15(山縣有朋2と統帥権5)

山縣有朋の明治政権骨格形成に果たした役割が分かり易く、しかもこのコラムで関心のある憲法と統帥権形成過程の関係もよく分かりますので、以下、京都大学附属図書館 維新資料画像データベースのコピーをさせていただいて紹介しましょう。

(山縣有朋は)明治2(1869)年西郷従道(つぐみち)と共に渡欧、兵制調査に当り、翌3(1870)年8月帰国直後に兵部少輔となり、数日後兵部大輔の前原一誠が辞任したため、実質上大村益次郎没後の明治維新新政府軍部の最高首脳となった。
兵制をフランス式に統一し御親兵設置に尽力した。
 明治4年7月14日(1871.8.29)廃藩置県の実施と兵部大輔就任が重なり、直ちに国軍の創設に着手、薩長3藩の兵1万で新兵を組織するとともに東京、大阪、鎮西(小倉)、東北(仙台)の4鎮台を設置した。国民皆兵を主張し、翌5年西郷を説得して徴兵令を制定した。
この年、兵部省が廃止され、代わって陸軍、海軍省が設置され、陸軍大輔に任じられた。
 同6(1873)年初代の陸軍卿となり、翌7年8月参議を兼任。西南戦争(1877)における征討軍参謀、参謀本部長など陸軍の枢要な役職を歴任した。
 同11(1878)年には参謀本部、監軍本部を設置して統帥権の独立(参謀本部を陸軍省から独立させる)を進め、軍政(軍備、人事、予算などの軍事行政)と軍令(統帥)の区別を明らかにし、天皇制軍隊の建設に努めた。
同年「軍人訓誡」、同15(1882)年「軍人勅諭」を発布し、「忠君愛国」精神を軍人に注ぎ、内面からの天皇制軍隊の実現も怠らなかった。
 同15(1882)年参事院議長となってからは内政面にも腕を振い、翌16(1883)年内務卿、同18(1885)年第1次伊藤博文内閣で、はじめて軍務外の内務大臣に就任し、黒田清隆内閣でも引き続き内務大臣を務めた。
 同20(1887)年には官僚制度の出発点となる文官試験制度を施行し、帝国大学出身者が官僚を独占する道を開いた。
 翌21(1888)年市町村制を公布(翌年施行)し、地方に対して国家権力の介入を容易にした官治的地方自治制度の成立を図った。第1次山県内閣(22年12月−24年5月)では、23年まで内務大臣を兼ね、包括的な中央集権的警察制度の実現に努力した。
 同31(1898)年から33(1900)年9月まで再び首相を務め、33年5月には軍部大臣現役武官制を設け、軍部内への政党の影響排除を図った。
その政策には一貫して執拗な政党嫌いと官治制に対する絶対的信奉があった。
 同23年陸軍大将、24年元勲礼遇、25年第2次伊藤内閣の司法大臣、26年枢密院議長となるが、日清戦争には第一軍司令官として出征、29年特命全権大使として露を訪れ、朝鮮についてロバノフ外相と協定するなど多彩な活動を通じ、勢力を拡大した。
 明治31(1898)年元帥となり、再び内閣を組織。日露戦争(1904−5)では参謀総長兼兵站(へいたん)総督。同38年再び枢密院議長となる。
明治24年以後は元老であり、とくに同42年伊藤博文が暗殺されると最長老として軍政両界に権勢を振ったが、大正10(1921)年宮中某重大事件(皇太子妃色盲事件)で山県の主張する婚約解消論が敗れると小田原の古稀庵に閉じこもり、翌大正11(1922)年死去。
年85。伯爵(明17)、侯爵(明28)、公爵(明40)。

 



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