06/10/06
明治憲法14(軍人勅諭4統帥権4)山縣有朋1
前回まで紹介したように、軍人勅諭では、軍人の守るべき徳目として、先ず「忠節」「礼儀」「武勇」「信義」「質素」の5カ条を掲げます。
その基盤となる誠心(天皇対する絶対忠誠)を説いた上で、天皇の統帥権を歴史的に基礎づけ、軍隊を動かす権力である兵権(へいけん)が、政府を構成し実際に政治を行う権力である政権とは独立に天皇に直属することを明示し、さらに、第1条の忠節の箇所で、軍人の政治不干与(関与)をも説いています。
ここにおいて、明治憲法制定以前から憲法が出来ても統帥権を別にする策謀が慎重に進められていたことが分かるでしょう。
こうした深謀遠慮の政治家としては、これまでも出ている山縣有朋の存在は重要です。
明治維新の権謀家としては大久保一人有名ですが、大久保亡き後の権謀家としては、山縣抜きには、明治政権と言うか戦前の国家像を語れないでしょう。
明治憲法と言えば、伊藤博文が起草したことで知られていますが、じつは山縣の想定した統帥権・・右半身を分離した左片側・・半身だけの憲法制定だったのです。
山縣ら軍部の言い分は、憲法は民を統治するための規範であって、天皇家の規範ではないし、その直属の身分・・天皇の軍人・・特別なものには、及ばないと言う論理構造でした。
この論理・思考法に基づく憲法論では、戦後も有力であった特別権力関係論があります。
まだ、私の司法試験受験の頃には、大きなテーマで、特別関係論に基づく判例などが勉強の対象でした。
この辺で、明治政権・・・太平洋戦争に至るまでの軍部の骨格を理解する上での、キーパーソンである山縣有朋(維新の動乱時では奇兵隊軍監山縣狂介の名で知られている人です)の人物像を、その経歴を通してみておく必要があるでしょう。
何しろ、彼は長生きで、1922年の死の直前まで、君臨していたのですから、彼の影響力は絶大でした。
信長〜家康〜秀吉の天下取りでもそうですが、維新動乱で活躍した中で最後まで生き残った彼は家康並に君臨できたのです。
最近でもそうですが、三角大福中のうち最後まで生き残っている中曽根氏がいつまでも、政治権力を保持で来たのも長生きの故です。
ま、しかし、今になってみると彼の長生きが、せっかく成長し始めた政党政治を踏み潰してしまい、日本の進路を誤らせたと評価されるのですから、歴史は皮肉です。
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