06/09/06
明治憲法11(軍人勅諭1と統帥権2)
軍人勅諭の必要性は、1878(明治11)年8月に起きた東京竹橋の近衛砲兵隊260余名が、給料減額や西南戦争での恩賞の不満などを理由に決起し、死刑53名に及ぶ厳刑が科された事件・・・「竹橋事件」に由来するようです。
この事件に限らず、西南戦争を最後に国内戦用の軍隊は不要になるのですから、この頃、せっかく編成した国軍の規律が乱れ始めたのは、仕方がなかったでしょう。
その士気を鼓舞し、規律保持の必要に迫られていたこともあって、竹橋事件で衝撃を受けた?政府は、陸軍卿名(山縣有朋)をもって全軍に向けて「軍人訓誡」の発布をします。
「雨降り手地固まる」の喩えのとおり、却って、イデオロギー締め付けの必要性が自覚されて、第2次世界大戦まで精神面で見れば、強固な皇軍が形成されて行くことになるのです。
1880(明治13)年に山県有朋の命をうけた哲学者の西周が、これを基本として原案起草し、それを福地源一郎が修正加筆し、それに井上毅がさらに加筆、山県もまた自らの意見を加え、勅諭として1882(明治15)年1月4日に発布されたものです。
これが、第2世界大戦敗戦まで「教育勅語」とともに天皇制国家イデオロギーの2大支柱となります。
教育勅語に関しては、教育改革のコラムの、09/28/03「明治維新と学制改革(教育勅語)6」で紹介しましたので、今回は軍人勅諭を紹介しておきましょう。
以下は、たむたむホームページからのコピーですので、原文に括弧書きの訓読みが付いていたのかどうか分かりませんが、そのまま載せました。
ただし、この勅語は兵卒向けの文書ですので、勅語原文自体が仮名交じりの読み下し分にして読みやすくなっていた可能性があります。
また、私の好みで、文の切れ目で改行をして、読みやすく改めました。
また、前文と箇条書き部分とからなっていて、長すぎますので、2回のコラムに分けました。
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