06/09/06
明治憲法10(閣内不一致と統帥権1)天皇の軍隊1
ところが、1900年(明治33年)、時の山県有朋第二次内閣において、当時力を付けて来た議会勢力の軍事費削減攻勢を恐れた山県は、その対抗処置として陸海軍省官制の備考とし
「大臣及び次官に任じられるものは現役将官とす(大臣は大・中将)」
とする勅令を公布し、その任命範囲を著しく掣肘します。
以後、この勅令が、内閣は軍部の意向を抜きに成立・存続する事が出来ない根拠を確立したのです。
大正の原敬内閣以後、我が国は政党内閣制になったと学校で教えられますが、陸海軍大臣の資格を現役将官に限定されていたのですから、議会第1党の政党が内閣を組織すると言っても、陸海軍大臣に限っては、自由に選任・解任できなかったのです。
しかも、軍人は、行政から切り離されて、天皇の軍隊となっていたので陸海軍の内部には行政権は、まるで権限が及んでいなかったのです。
そこで、天皇の軍隊と言うのは、いつから始まるかということになるのですが、公式には、1882(明治15)年1月4日発布の軍人勅諭からでしょう。
これは、明治天皇が陸海軍軍人に対して下した訓誡の勅諭で、正式名称は「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」と言います。
これの政治的背景は、 1880(明治13)年頃にかけて高揚していたた自由民権運動に対して、明治政府は大衆に立憲君主制への移行という一定の譲歩をすると共に、運動に対する弾圧と相俟って、仮に民選になっても、これとは別ルートの軍事を作ることによって・・・統帥権の確立によって絶対的権力を保持しようとするところにあったと言われています。
すなわち、軍隊に対する権力を議会(政治)から分離したのであるが、天皇親率の軍隊としての性格を付与するために、勅諭の形式をもって発布されたのが軍人勅諭なのです。
ちょうど普通選挙実施に対して、治安維持法の制定が抱き合わせになったのと同じです。
抱き合わせの怖さについては、06/10/03 「政府のしたたかさに付いて、(抱き合わせの怖さ)(憲法7)」で紹介しましたが、この軍人勅諭もその一種です。
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