06/07/06

内閣8(明治憲法7)建前と実態の乖離2

国内戦・・・佐賀の乱や西南の役その他が終わってしまうと、軍は国際的な戦争を想定しなければならない時代がきていたのですが、国内政治からさえ縁が切れている軍部が、国際政治になるといよいよ関係のない世界ですから、軍部が国際問題の解決に口出しするのは、元々無理があったのです。
それこそ、戦や政治実務に疎い公卿が、政治や合戦の方法に口出ししていた保元の乱と同じです。
それなのに、国内・・国際政治に無関係な軍部が昭和期になって口出しできるようになるのは、建て前優先で、実務を担う内閣制度をうやむやにした、いびつな憲法構造に原因があったのです。

明治憲法で内閣制度がどのように変わったかについては、6月5日・・・・・1のコラムで紹介した明治18年に成立した内閣職権と比べてみれば、分かりますので、もう一度紹介しましょう。
内閣職権では、内閣総理大臣は
「各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承テ大政ノ方向ヲ指示シ行政各部ヲ統督ス」ること(第1条)
となっていて、総理大臣が、代表として天皇に奏宣することになっていて、各国務大臣が直接天皇に奏宣できませんでした。
しかも、総理一人が、(天皇の)「旨を承テ」天皇の命であるとして、「大政ノ方向ヲ指示シ」その指示権を確実にするために「行政各部ヲ統督ス」ることが出来たのです。
この実効性を担保するために、「行政各部ノ成績ヲ考ヘ其説明ヲ求メ及ヒ之ヲ検明スルコトヲ得」ること(第2条)「其主任ノ事務ニ付時々状況ヲ内閣総理大臣ニ報告スヘシ」 (第6条)
となっているのです。
このように憲法制定前の内閣制度と比較すれば、明治憲法下では、国務大臣が天皇に直結できた点だけを見ても、総理の権限が格段に弱くなったことが分かるでしょう。
これまで書いたように、天皇親政を標榜する以上は、内閣が最終的な権限を持つのは無理があるのですが、それだけならば、天皇の名で政治をすれば足りるでしょう。
それよりも、総理一人しか天皇の「旨」(意向)を表示できないとなれば、伊藤博文は、自分が総理のときは、問題がないが、後任に引き継ぐ過程で、君側の奸がはびこる事態が発生することを憂えたのでしょうか? 
しかし、武家政権のときには、義経が直接判官の官位を受けたことが頼朝の逆鱗に触れたことからも分かるように、武門の棟梁一人しか朝廷に接触できない仕組みは、組織の統制を守るためには必須の制度だったのです。
軍事組織に限らず、ある構成員が組織トップを抜いて、より上位の権威に直接意見具申できるとなれば、組織トップの権威は保てません。
内閣職権で、総理一人しか天皇の旨を受けられないようにしたのは、古来からの伝統であるばかりか、リーダーシップを確保するために必要であり、むしろこれをなくす方が不自然なことです。
これをなくし、個々の国務大臣が、総理を抜いて直接天皇の輔弼をできるとなれば、総理のリーダーシップは否定されたと同然です。

 



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