06/06/06
内閣7と枢密院9(明治憲法6)
水戸家が伝統的に野党感覚で、ずっと徳川政権内で斜めに構えていたことについては、02/11/04「水戸家は政権内野党?(教養と職務が乖離すると?)」その他で紹介しました。
その水戸家が、イキナリ観念的な朝廷の決裁権を言い出して尊王攘夷運動に火がついたのですが、朝廷は元々具体的な処理能力がないことから実権を徐々に失っていった結果、約700年にわたって実務経験すらなかったのです。
経験も能力もないところに、国論の分かれる最も難しいことをやらせようとするのは、土台無理があったのです。
ここで私が言う能力とは、個人的資質を言うのではなく、組織としての積み重ね・・人材の厚みを言うのです。
政治能力・・蓄積がない分、君側の人物次第となり、振幅・・(攘夷から開国など)が大きく、このために混乱したのです。
こうした歴史を見れば、実務能力のない者(組織)が、決済権を持つことはどんなに危険なこと変わるでしょう。
内閣は、明治憲法ではまったく明記されず、しかも国務大臣が天皇を直接輔弼すると明記されたのですから、内閣の存続が認められるとしても、各国務大臣が天皇を輔弼するについて協議するために設けられる組織体・・一種の関係閣僚協議体に過ぎなくなった・・・格下げされたと言えるでしょう。
国務大臣が直接天皇の輔弼し、諸施策を決定するのですから、内閣は行政上の方針を統一するために、横の連絡協議する非公式な場に過ぎなくなったのです。
公式の会議は枢密院でやるので、昇殿を許されない内閣が、
「地面に座り込んで(水面下で)何かごそごそ相談しているなあ」
程度の平安時代に戻したと言うところでしょうか?
こうして実務に携わる内閣の権限が、法的にはっきりしない制度になったために、政治のわからない軍部の容喙・・専横を許すことに繋がるのです。
その制度的遠因は、枢密院を設置したことにより、内閣の地位がはっきりしなくなった点にあるでしょう。
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