06/06/06

内閣6と枢密院8(明治憲法5)建前と実態の乖離1

この建前と実態の乖離が、後に紹介しますが、政治の分からない軍部の横車・・独走を招く原因になり、日中戦争から日米開戦に繋がっていくのです。
このように、天皇親政の建前が憲法上完成したことよって、内閣の地位が低下しましたが、実務担当者会議が実際に必要なのは当然ですから、内閣をなくすわけには行きません。
ちょうど建武の親政で、後醍醐帝の親政が始ってみると、実務能力が低かったために、現実的解決を求める武士団が嫌気して、次第に足利氏の屋敷に群がるようになって事実上幕府が出来上がっていったようなものです。
この場合は、足利氏が朝廷外に作ったのですが、明治政府は政府内にこうした実務機関である内閣(江戸時代までは幕府に当たるでしょう)を取り込み、枢密院の2本立てにしたのが、事態をややこしくしたように思います。
武家政権は、律令制からはみ出した・・どちらかといえば事実上の機関でしたが、明治憲法でも、律令制下での公卿会議のような審議体である枢密院は、憲法に明記されたのに、実務機関である内閣に関しては、憲法上明確な地位を与えられない鬼っ子的扱いでした。
ここで、ちょっと朝廷と武家政権の関係を見直しておきましょう。
白村江の海戦以来の鎖国で、日本では農耕社会化が進んできて、王権の役割が激減していったことを、「09/11/05、商業社会(王権)から農本主義へ2(権力不要社会へ1)」以下で連載しました。
この結果、農民に密着している武士層に政治解決を依存するようになって行き、朝廷は、政治・・解決能力がないことから、鎌倉開府以来、朝廷から具体的決裁権が徐々になくなっていきます。
これが、最終的に朝廷の儀式と武家の実務に棲み分けられて、約700年も経過して来たのです。
これが完成したのが、江戸時代でしょう。
こうして、朝廷は長い間具体的政治から棚上げされていて、具体的な決裁するようなことがなかったので、問題がなかったのですが、幕末になるとイキナリ開国するには勅許が必要と言う話になって、幕末の騒乱に繋がるのです。



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