06/05/06

内閣4と枢密院5(公武合体)(明治憲法2)

憲法に明記されなくとも、前回までに紹介したように、既に各省各大臣制度が出来ていて、憲法制定前から国務大臣が内閣を組織する制度があったので、当然その延長で機能する事を前提にしていたのでしょう。
内閣制度が、明治18年に法制化される前に、事実上参議による会議体・・内閣が存在していたのと同じです。
 明治憲法では、内閣を明記せずに国務大臣しか書かなかったのは、まだ内閣の果たす重要性が明確に意識できていなかったからでしょうか。
それとも、内閣の職権が強くなりすぎるのを抑えるためにあえて、意識的に無官の大夫・・・制度的には非公式なままにしておいたのでしょうか?
私は、前々回に書いたように、一種の公武合体になる内閣制度を、何とか逼塞させたいと言う王政復古勢力による巻き返しがあったように思えるのです。
前回紹介した憲法55条のとおり、行政権については、個々の国務大臣の輔弼によって天皇が自ら行うという、たった1条だけしか書かれず、しかも内閣の文字や総理大臣の文字は一切はいりませんでした。
実務家が行政権を握るべきであると言う私の考えからすれば、鬼っ子であるべき枢密院と言う会議体が同じ章で憲法に明文で定められたのです。
この趣旨は、実務家の力を無視できないとしても、この力を殺ぐために、まず内閣の存在を憲法であえて無視し、さらに、それでも実力でのしてくるであろう内閣の力を抑えるために、国務大臣と同じ章で枢密顧問制度を明記し、ここで重要な国務を審議するとしたのです。
この規定が明記されると、内閣での決定は、枢密院の議題に上げる前段階の内部打ち合わせでしかなくなるのです。
公武合体とする以上は、実務家でない枢密院顧問(昔なら公卿会議?)の下位に実務家を位置付けようとしたのでしょう。
これまで書いて来たように、ここでいう公武合体の「公」とは、行政実務家でない者の謂いであり、「武」とは武人と言う意味ではなく、行政実務家という意味で使っています。



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