06/03/06
元老院と枢密院2(内閣の始まり3)
大日本帝国憲法制定に向けて実際の準備は、長年元老院で議論して出来た経過があって、その都度否決されたとしても、その論議の積み重ねは役に立ったでしょう。
ところが、最後に枢密院が出来たために、後世では、何から何まで枢密院の功績のように思われて、元老院制度があったことさえ大方の人は知らないでしょうし・・・真実が分らなくなっているのです。
元老院の廃止・・・・・元老院のつくった憲法草案は、国情に合わないということで、その都度否決されましたので、これでは役に立たないと言うことになったのでしょうか?
1887年(明治17年)3月には、西洋の調査から戻った伊藤博文を中心に、宮中に制度取調局が設置されます。
以後は伊藤博文が長官となって、彼を中心に憲法制定と皇室典範の起草準備に入り、関連の諸制度を急速に整備していくのです。
同年7月7日 華族令を制定し、旧大名公卿の外に功績のあったものも序せらることになります。
廃藩置県以来、失業状態で不満の極にあった旧大名の懐柔にもなりますし、皇室防衛の藩屏としたのです。
藩屏については、「藩の消滅」のコラムで紹介しました。
同時に 憲法取調べ係りが設けられ、1885年(明治18) 12月22日 内閣制度が成立し、伊藤博文が初代内閣総理大臣に任命されます。
その後、次第に枢密院の発言力が大きくなりますので、後世では、枢密院ばかりが有名になるのですが、実は明治憲法制定までは元老院が法案の審議機関であり、その決裁機関は内閣でした。
少数の枢要な元勲だけで構成する枢密院が重きをなすようになり、元老院がなくなってしまったこともあって、日本に元老院があったことすら、知らない人が多いのではないでしょうか?
こうした誤解は、後にも触れますが、伊藤博文の草案にかかる憲法が制定されたことと、日本国憲法にも「枢密顧問の諮詢を経て・・・」と書かれているのを読みなれていて、こうした言い回しが私の脳裏に焼きついているからではないでしょうか?
(私だけの誤解かもしれませんが・・・)
本当は枢密院は憲法発布前のわずか半年あまり前に出来たばかりだったのに、明治時代は枢密院が牛耳っていたような誤解を生んでいるのです。
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