06/02/06

元老院3と枢密院1(内閣の始まり3)

ただし、現在でも国会が国権の最高機関であるというのは、形式上のことで、議院内閣制の結果実際は、議員が内閣に従属していることは周知のとおりです。
国会に提出される法案は、内閣が決定した法案が殆どですから、内閣提出法案にしてもらうには、結果的に与党議員も内閣・・各省の役人に食い込む・・従属的にならざるを得ない・・・族議員になっていくのが現実です。
また内閣提出法案=与党案に反対すると、どんな目に遭うかは、昨年の郵政法案の否決にともなう自民党公認問題で明らかです。
むしろ、今の制度の方が、建前・・まやかしっぽくて、明治初めのほうが実体に合っていると言えるかも知れません。
ここまでに、内閣と言う言葉が繰り返し出てきますが、1873(明治6)年5月2日の「太政官職制」で出現した「内閣」は現在の内閣制度からみれば、まだ卵のようなものでどうなるか誰にも分からないものでした。
1875年(明治8年)、元老院が出来た段階では、その卵からひよこになった段階と言えるでしょうか。
これが徐々に実務能力が育った結果、現在の内閣制度に連なる内閣制度が明治18年12月に生れるのです。
左院廃止後憲法草案などの具体的な審議は、元老院で行われて来たのですが、いづれも内閣に突きかえされて採用されなかったようです。
その後、憲法発布が必至の情勢になってくると、明治21年5月天皇を守る藩屏として・・・天皇の個人的な諮問機関としての枢密院が設置され、この枢密院の議を経て翌22年2月11日憲法発布となるのです。
この2月11日が、後の紀元節になるのですが、現憲法発布記念日が、11月3日の文化の日となっているのと似ています。
(勿論施行日は、憲法記念日の5月3日・・・6ヶ月後です。)
「この枢密院の議を経て」と言う慣用句が有名ですので、いかにも枢密院が長年研究をし、政治的根回しをしてきたかのような印象をお持ちの方が多いと思いますが、本当は元老院で次から次へといろんな草案の研究をしていたのです。



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