06/01/06

参議9(明治の参議2)藩閥政府2

副島種臣は、その後明治6年に台湾帰属交渉のために清国への全権大使を務めたときには、欽差大臣ではなく、外務卿と言う肩書きがついています。
日本では、既にこのころには、清朝的呼称にこだわらない方針になっていたのでしょう。
明治の最初は、07/28/05「明治以降の刑事関係法の歴史2(清律2)前後で連載しましたが、清朝的官制の模倣ないし借用から始まった面があるのですが、明治6年になると、清朝の真似から訣別して、西洋的・・我が国独自の官制を構想し始めていたといえるでしょうか?
07/29/05「明治以降の刑事関係法の歴史3(清律から西洋法へ1)」、07/30/05「弾正台1(検事の由来1)」以降書いて来ましたし、この4〜5日後に書きますが、司法省成立直後の明治6年にパリ大学教授ボワソナードを招いて西洋法の継受に精力を注ぐようになるのと時期が一致しています。
明治維新から数年も経つと、既に日本は清朝を参考にすべき国ではなく、西洋を参考にする方向へ方針が変わっていたことが分かります。
副島種臣は、これまでも紹介している政体書の起草にかかわり、明治2年ころには参議となっていました。
太政官制による2官6省の制は、1869年6月に始まり1871年7月(このときから8省になり神祇官が格下げになります)まであったのですが、政体書の「外国官」の後身として、外務省が設置された時の初代外務卿は、沢宣嘉(ノブヨシ)と言う人でした。
彼は、幕末に三条実美と一緒に行動していた公卿で、いわゆる長州への7卿落ちの一人でした。
維新後、その実績で重職に着いたのです。
副島は参議制度創設当初から参議にはなれても、最初の内は、まだ家柄重視でしたので、初代外務省の卿「かみ」には、なれなかったのでしょう。
参議の第2陣は、伊藤博文〜伊地知正治あたりからと言えるでしょうか?

木戸孝允 (桂小五郎)西郷隆盛 大隈重信  板垣退助  後藤象二郎  大木喬任
江藤新平  大久保利通  副島種臣  伊藤博文  勝海舟 寺島宗則 伊地知正治
山県有朋 黒田清隆 西郷従道 川村純義 井上馨 山田顕義 松方正義 大山巌



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