06/01/06

参議8(明治の参議)藩閥政府

こうして、三条実美、島津久光や、岩倉その他大物は祭り上げられて、明治政権は、この家柄の低い参議によって、実務が運営されて行くことになるので、薩長土肥政権・・藩閥政府と呼ばれるのです。
この後に実際に参議になった人を紹介しますが、ぴたりと長州と肥前、土佐、薩摩出身者に限られているのです。
人材の面では、31日のコラムで書きましたが、実はどこの藩閥政府であろうともわが国では、人材がそれほど差がないのですから、困らなかったでしょう。
(思考形態など、地域差がかなりありますが・・・)
明治の参議制度は、太政官制度と共に始り、廃藩置県後には正院を構成し、明治六年の政変(西郷らの下野事件です)以後は各省長官を兼任し、1885年(明治18年)の内閣制度が発足して、発展的解消となるまで続きます。
このころには、最早徳川期以来、または古代的家柄のしがらみは、消滅していたので、格式外の官である参議制度が不要になったからでしょう。
ついでに、明治の参議には、どういう人がなっているか、Wikipediaより引用ですが、以下のコラムで紹介しておきましょう。
ここに書かれた順序は、おおむね時系列のようですから、名簿のはじめから副島種臣、寺島あたりまで?が明治維新始め頃の参議でしょうか。
副島種臣については、06/09/04「国事行為16(憲法74)天皇家の存在意義13(大使公使の変遷1)」のコラムで紹介しました。
上記コラムで引用した文書では、明治4年の勅語には欽差大臣伊達宗城とあり、同時にロシアとの樺太方面の国境確定交渉に赴く副島種臣に関する勅語には、これといった肩書きがついていませんので、参議ではあっても、全権大使まで行かない次官級にすぎなかったのでしょうか。
ちなみに、清朝では地方総督が、その範囲で外交も担当するようになり、これらの地域に関する特別な外交交渉を皇帝が特別委ねる場合に、欽差大臣と称しました。
(有名なところでは、アヘン戦争の林則徐でしょう)。
そこで、諸外国では、中国との交渉に携わる全権大使の格が、中国の交渉相手と対等であることを示すために、「欽差大臣」と言うようになったそうです。



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