06/01/06
参議7(律令制と参議)
参議の意味に関して、いろいろ書いて来ましたが、参議の実例から見て起きましょう。
参議の最初は、大宝2年(702年)5月21日に大伴安麻呂、粟田真人、高向麻呂、下毛野古麻呂、小野毛野の8人を、朝政協議に参議させたのが、わが国での参議の始まりといわれています。
大伴安麻呂は、壬申の乱の頃から活躍した武人で、参議する事を命ぜられた(役職であって、身分や地位では有りませんでした)ころには、従三位だったらしいです。
その後順調に昇進を重ね、最後には大納言になっていますし、万葉の歌人で有名な旅人などの父親です。
粟田真人、はその翌年ころに遣唐使として唐に渡り、則天武后の宴席に列し、面目を施したことで知られています。
前年の大宝律令の選定にたずさわるなど、新進気鋭のインテリだったようです。
後に紹介する予定ですが、副島種臣が明治2年に政体書の起草に係わり、この結果できあがった2官6省の体制が、出来ると同時に参議になったのと似ています。
令外の官であって実力次第と言うことから、定員が決まっていなかったようです。
この事実上の参議(今で言うと参画ですか・・・?)の運用が、制度上731年の正官として参議が成立したのは、731年と言われています。
(以上Wikipediaより引用)
12/17/05「天武・持統朝と律令導入(大宝律令と養老律令)以下のコラムで連載しましたが、大宝律令の制定が701年ですから、その翌年には、令外官である参議が始っているのですから驚きです。
上記連載では、班田収授法が律令成立の直後からほころんでいたと言う関心で書いてきましたが、官制の方面でも、身分格差の厳しい中国から導入した制度は、我が国の身分差のない・・・ひいては能力差の低い社会実態に合っていなかったからでしょう。
この参議の制度が、明治政府によって令外官として?採用されたのです。
この歴史経過から分かるように、参議制度は家柄だけで選任されるのでなく、実力主義の本質を持っているので、薩長土肥の元下級武士が、国政に参画する道を開く方法とされたのです。
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