06/26/05

荻生徂徠・・儒学から経済学へ

荻を利用した雅号・ペンネームで有名な所では荻生徂徠でしょうか?
荻生徂徠・1666〜1728年は、綱吉時代、柳沢吉保に認められた儒学者で本名は松本というのです。
彼は子供のころ、父が失脚して千葉の田舎に逼塞していたこともあって苦労して育ちました。
(と言うことは千葉育ちです。外房線のどこかの駅に案内板が立っていますが、駅名を忘れました。)
彼は、反骨精神で既成儒学に対する強烈な批判をして、頭角をあらわした学者です。
彼の学問傾向と生い立ちを考えると、俗な雑草である「荻生」(おぎゅう)などと名乗るのは、卑下したと言うよりも、既存権威に対する挑戦心の発露だったのでしょうか? 
次の新井白石などというのは、如何にもにも育ちの良い秀才ッポイ名前です。
荻生徂徠は、綱吉時代の実力者・側用人柳沢吉保の知恵袋として活躍したのですが、その次の家宣時代にも側用人の間部詮房・儒学者・新井白石コンビが幕政を切り盛りしたのです。(正徳の治)
儒学者が続いた次に、吉宗の親政時代が来るのです。
こうしてみると、平和時代の到来により、武断政治から文治に変わる最初は、観念的な儒学者が幕政に関与する時代が続いた事が分ります。
綱吉は自身も、大の儒学好きでした。(湯島の聖堂は、綱吉が建てたものと思います。)
文治と言えば、儒学しか知らなかったのでしょう。
古代ギリシャで、プラトンが哲人政治を理想としたのと似ています。
しかし、高邁な儒学者や哲学者がせいぜい、思いつくのは「仁」とその応用くらいでしょうから、実際の経済活動が活発化して来ると、実務的な役には立ちません。
仁の成果が有名な「生類憐みの令」になって、後世に名を残したのです。
綱吉の滑稽な所は、彼は当時の「文」そのものである儒学に傾倒していたのですから、当時の基準で言えば名君だった筈ですが、時代の進展に必要な人材・学問が育っていなかった点にあるのでしょう。
赤穂浪士・忠臣蔵の討ち入り事件の発端も、公平な裁判が出来なかった所にあるのですが、既に当時は、経済官僚だけでなく法律実務家など・テクノクラート必須の時代が来ていたのです。
吉宗が、親政できたのは、優秀な官僚機構を創設したところにあるのでしょう。
彼が現在の官僚機構の祖と言われる所以です。
吉宗以降は、政治の関心が経済や法律実務(大岡越前などの活躍・・)に移り、いろいろな改革がありますが、(享保・寛政・天保)いずれも経済改革中心でした。
或いは悪政と言われる田沼時代も、結局は、経済政策の違いでしかなかったのです。
各藩の名君と言われるのも、結局は経済改革をした人々です。
なお、法律実務家の発生については、 12/16/03「公事方御定書1(刑法4)(江戸時代の裁判機構1)」以下7回ほど連載していましたが、このシリーズは途中で話が横に行ってしまったので、この後にも出てきます。



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