06/22/05

関東平野の原風景とは4?(豊多摩郡)

木綿が国内に及んだのが戦国末期で、それから徐々に広がって、自給できるようになったのが、江戸時代中期からと言われているのですから、木綿が全般に行き渡り始めたのは、国産化出来た江戸時代中期ころからのことでしょう。
それまでは日常繊維類としては、麻しかなかったのですから、麻が関東平野の主力生産品でなくなったのは、ついこの間と言ってもいいくらいです。
この僅かな期間の経過だけで、明治の初めころには武蔵野が麻の産地であり、これが坂東の地の経済力の源泉であったことをみんなすっかり忘れてしまうのですから、(私だけが知らなかったのかもしれませんが・・・)驚くばかりです。
そして江戸時代中期以降、不要になった麻の代わりに雑木林に植林していき、江戸市民の燃料需要や旺盛な建築材需要に対応していったのです。
普通の発展形態は、林を切り開いて作物を作るのですが、武蔵野では、逆に元盛んであった・麻の生産が衰退してしまったので、これを逆に林にしてしまって、江戸の近郊産業(薪炭業)として生き残ったのです。
火山灰の上に最初は草(麻やススキ)が生えて、次に木(雑木)が生えるのは、当たり前と言えば当たり前ですがね・・・。
この僅かな雑木林の期間を古来の歴史・原風景と間違って、明治人(国木田独歩は明治4年(1871)千葉県生れです)にとっては、武蔵野の雑木林が郷愁を誘うものになっているのです。
繊維としての麻は、今では夏物とか特別な用途にしか使わなくなってしまいました。
こうして麻は遠い過去の記憶になりましたから、明治維新で苗字を考えるときには、思いつく人があまりいなかったのでしょう。
ところで、現在の新宿西口の淀橋あたりは、明治の初め(11年)ころの町村制では豊多摩郡内にあったそうです。
その後山手線の外側も人口が増えて都市化されましたので中野区、杉並区までが23区の範囲に入り、その外側だけを、郡部・3多摩地方と言いますが、もとは山手線の外側(西)は、全部多摩郡だったのです。
勿論阿佐ヶ谷も荻窪も、豊多摩郡阿佐ヶ谷村と呼ばれていたのでしょう。
この地名から見ると、新宿近くまで麻が多く自生していたのかもしれません。
但し、豊多摩という地名は多摩の中でも麻が特に豊かという意味ではなく、豊島区の語源になっている豊島氏の支配が及んでいた多摩地域という意味だったのかもしれません。



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