06/22/05
関東平野の原風景とは3?(多摩川 ) 将門の乱
話を麻に戻しますと,エジプトや地中海世界と違って高温多湿のわが日本列島では、麻が生活必需品になるのにそれ程の時間が掛からなかったでしょう。
こうなると、麻が大量に自生する坂東の地が注目されるようになります。
この魅力から、これまでに、05/30/05「千葉の歴史18(千葉県人とは7)(源氏との関わり2)」等で書いて来たように、平将門以前から坂東の内陸部にどんどん移民が流入していたのです。
こうして次第に坂東の経済力が高まってくると、自立機運が起こり、将門のように自立した王国にしようとする動きも出て来たのでしょう。
将門の乱を、単なる親族間の争いにしてしまうのは、無理があります。
親族間の争いだけなら、独立宣言までする必要がないでしょう。
アメリカ植民地の独立同様に、この地の経済力・植民地軍が充実して来た背景があるからではないでしょうか?
日本の歴史上いろいろな乱や役がありますが、独立宣言までしたのは、このときが最初で最後ではないでしょうか?
ところで麻を入手するために、関東平野の内陸部に入っていくには、麻の多いという意味の多摩地域を流れる多摩川があるのですが、多摩川の河口である川崎が何故発達しなかったのか不思議です。
一つには、多摩川は「暴れ川」だったことで有名ですから、河口や輸送路としては安定し難かったことがあるかもしれません。
それに穏やかな利根川水系と違って、多摩川は暴れ川という性質からも分るように、関東平野には珍しく、急流?(と言うほどでもないですが)が多くて水運に適さなかった可能性があります。
他所の土地ならその程度の川は普通でしょうが、関東では、利根川水系は流れが緩いので、比較劣後したというわけです。
それに加えて、流れる川を遡るよりも、殆ど水位差のない湖沼群を縫って内陸に分け入る方が、荷物の運搬・労力的に楽ですから、湖沼群の連なる上総の国下総の国から内陸へ向かったのでしょうか?
利根川の流れは、江戸時代まで現在の江戸川であったことは、繰り返し書きました。
それにものの本では、「利根川の水運を利用して・・・・・。」という記述はいくらもありますが、「多摩川の水運」という記述はついぞ見かけないのです。
今でも江戸川や利根川には大きな舟が往来していますが、多摩川で舟が遡上するのは、見たことがありません。
狛江あたりに作った井堰が邪魔をして、多摩川で洪水になったことがありましたが、舟行に適さないのでしょう。
私は多摩川べりで、昭和42〜3年ころから数年住んでいたことがあって、そのころ毎日のように川べりを散歩していました。
関連ページリンク
稲垣法律事務所コラム内:歴史に関するコラム
©2002,
2003, 2004, 2005, 2006 稲垣法律事務所 ©弁護士 稲垣総一郎
Design
/ Maintained by Pear Computing LLC
