06/15/05

千葉の歴史25(千葉県人とは14)縄文から弥生への過渡期

千葉の不受不施派に対する弾圧の歴史を学校で教えないことの紹介から、歴史教育に深入りしてしまいました。
06/02/05「千葉の歴史24(千葉県人とは13)団十郎の出身地(成田闘争と不受不施派1)」のコラムの続きです。
千葉の歴史について縷々書いて来ましたが、平安時代以降の移民の流入もなく、江戸時代に紀州移民の受け入れもなかったその他の房総半島内陸部や東京湾に面した地域は、おおむね縄文以来の土着県民が(もっと詳しくは、アイヌ系の話もしなければなりませんが、今回はこの辺にしましょう。)そのまま残っていた地域と言えます。
ただし、小金 佐倉牧などには、江戸時代に、窮民対策として入植者がはいっているようです。
あるいは、印旛沼などの干拓地にも入ったかもしれません。
窮民とは何かは難しいところですが、漢文の本来の意義例えば「孟子」では、年老いて妻がいない者や、老いて夫のいない者、或いは親のいない孤児など「孤独な者」をまとめて「窮民」として書かれているそうです。
歴史上出てくる窮民対策とは、(内容はそのうち勉強しますが・・・)多分今の言葉で学者が書いているのでしょうから、今の失業対策または、治安維持上の必要から正業につかせるためのものだったでしょう。
もしかしたら、江戸市中の佃島の人足寄せ場を大掛かりにしたものだったのかも知れません。
人足寄せ場については、12/15/03「刑務所の歴史3(刑罰の種類1)」以下で紹介しました。
そうすると本来の計画的入植者とは少し違って、少しレベルの低いものの寄せ集め移住であった可能性があります。
その他に佐倉藩では、幕末までに14家も藩主が入れ替わっていることを、12/07/08「千葉の歴史5(千葉県人と海洋史観2)」のコラムで紹介しました。
このように、江戸時代には房総半島は徳川の領地でしたので、大名家の転封が激しかったので、これに伴う家臣団の移動定着も少しはありましたが、民族移動とまでは行かないでしょう。
例えば、新井白石は久留里藩士でしたが、江戸屋敷で生まれて江戸で育ち、久留里(千葉県君津市内の山間部です)に住んだことがない筈です。
ところで、千葉では、縄文人的生活が最近まであったと私はよく言いますが、(私の話を聞いた人は「そうですか?」と笑いながら聞いていますが・・・・・・。)私の直感もまんざらではないことは、最近の研究でわかってきたらしいですよ!



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