06/04/05

唯一神信仰と独裁3(多神教と合議制3)

多神教・・すなわち多元的価値観の並存を認めるわが国では、古来から基本的に合議制で何ごとも決めていく社会でした。
平安時代の朝廷の会議に始って、武家政権になってからでも、北條執権家の合議など、独裁権限は認められなかったのです。
戦国時代の戦陣における軍議でさえ、諸将が集まって合議で決めて行くしきたりでした。
信長の独裁的な政治の後を継いだ豊臣、徳川は、一見独裁的ですが、結局は老中の合議制になっていき、信長や井伊大老のように独裁的権限を行使すると暗殺の憂き目に遭う社会です。
或いは、独裁まで行かなくとも、独裁的な強力な権限行使にまで行くと、(権力が1人に集中しすぎると)いろんな形での失脚が待っていますので、自分の実質的な権力誇示を慎んで、質素な生活をするのが普通です。
現在でも内閣総理大臣の権限が弱いこと、その強化がいつも問題になりますが、これは西洋かぶれした学者の言うことに過ぎず、西洋とは歴史が違うのですから、欧米の真似をして独裁権限またはその類似権限を付与するのは無理があるでしょう。
トップダウンと言われますが、それでは組織がかえって動かない社会なのです。
せいぜい「独裁的」と言われる権勢レベルがやっとでしょう。
むしろ自分の意のままであっても、そうでないように振舞うのが極意であって、自分の権勢を誇示していたのでは政治はうまくいかない社会です。
これに対して、一神教世界では、モーゼやモハメットのような特定の強力な指導者が「迷える羊を」導いていくのが基本的思想です。
「導かれるべき羊」に相談しながら進べき方向を決めていくスタンスは、論理的に全くありません。
英雄が待望される社会と言えるでしょう。
この種社会では、指導者が自信を以って毅然と行動することが求められ、人に相談していることは隠さねばなりません。
アメリカ映画やテレビ報道(ニュース)でも、大統領や指導者が群集を前に演説して、演説が終わるたびに群集の歓呼の場面を映し出しますが、ハイル・ヒットラーを歓呼で迎えるドイツ群集と本質は変わりません。
こういう社会では、会社経営でも一握りの高収入エリートとその1000分の1の給与の末端社員何千人と言う構図が当たり前なのでしょうが、わが国から見たら異様で、「よく社員が黙っているなあ!」と驚く景色です。
農業でも地主と農奴と言う構成で、会社は研究員や経営者と工員という具合にかっきりと区分けされた社会、身分社会の焼き直しの似合う社会なのです。
日本では、士農工商と言っても武士が気楽に武士を辞めていますし、他方で、簡単に士分に取り立てられたりしていて、それほど垣根が厳格ではないのです。
近代工場の工員自体が研究者の気分ですし、その他各種作業現場の工夫で作業工程など合理化を図り、盛り立てて行くものです。
その象徴が、作業服を着た田中さんがノーベル賞受賞者になったことでしょう。
勿論農業などは、自営農ですから、自ら工夫のオンパレードです。



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