06/30/04

殺傷目的から武術・スポーツへ 6

保元・平治の乱の洗礼を受けてからは、富士川の合戦に際し、水鳥の羽音に夜襲と間違って驚いて壊走した平家の故事に明らかなように、合戦前の挨拶なしの夜襲は当たり前の時代となります。
戦国時代になると、留守中を襲うなど、なんでもありの時代になっていったのは、ご存知のとおりです。
ところが徳川政権が確立すると、平和時代の到来で、本来の殺し合い目的から離れて第3者の判定を求めて、褒美(名誉)を貰うのが目的の武術に励む時代になりました。
そうなると競技の始まりから終わりまで一定のきめられたルール・例えば、相撲の立会い(スタート)から土俵の範囲内とか手がついたら負け(ゴール)とかのルールが必要となって来ました。
私の考えでは、結果さえ良ければいいのではなく、一定のルールの下に優劣を競う競技として自立したときに、武術は生死を分けた戦いの手段から、スポーツに転化したことになると思います。
更に発展しますと、本来の死闘としての要素が背景に退き、結果ばかりでなく途中の様式、スマート性更には精神性までが要求されてきます。
我が国で、刀や、火縄銃が装飾品・美術品となって行くのも同じ根っこでしょう。
オリンピックの体操やフィギュアなどは、途中経過の華麗さが重要です。
今年の2月頃の日経新聞に書いていましたが、世界企業が日本進出して戸惑うのは日本的特殊性であるといい、その1例として、ゴルフ用具を売るにも、日本では、打ったときの音がいいとか、西洋人から見れば「どうでもいいことにこだわる」ので世界標準そのまま持ってくると売りにくいと紹介していました。
結果ばかりではない所に価値を見出す日本人の嗜好は、江戸時代に形作られたのです。
歌舞伎でも道行が重んじられますし、私も、神社仏閣詣では参道等の途中が好きです。
こうして日本では、幕末ころには、武術は実用を離れて健康の為の運動や競技種目として発達し、ひいては庶民の出世の足がかりになるものでしたから、身分の低い階級ほど頑張っていました。
こうして農民ないし郷士出身(養子になりましたから)の近藤勇は最後の最後には徳川幕府若年寄格、 甲陽鎮撫隊隊長(甲府城の守備隊長ですから、1城の主みたいなものです。)を命じられ大名行列の真似事をして甲州街道・・・彼の故郷です・・を練り歩き、錦を飾っています。
ところが、甲府は、先に官軍に制圧されていて、城の主には、なれませんでした。このように武芸に励むのは、下層階級にとっては単にストレスのはけ口・エネルギーの発散だけでなく、出世の糸口にもなっていたのです。
文武のうち、「文」で才能を生かせる層は当然そちらに移行していきますので、(新井白石や大岡越前は武術で出世したのではありません。)幕末ころには、道場で猛練習していたのは、上級武士では「文」の才能の足りない人か、身分上出世の道が閉ざされている下層武士・足軽と農民層でした。
人種差別の大きいアメリカで、黒人層がスポーツで頑張っているのと同じです。




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