05/13/08
慈善団体の運動と民間資本
今回も「日本における精神医療関連法規の歴史」(引用)とコメントのつづきです。
もしかしたら、慈善団体の運動は患者の待遇改善・・慈悲の心よりは、私的監禁の負担に耐え切れない健常者家計の負担軽減要望が中心だったかもしれません。
本来民間からの篤志家が出て、寄付を募るなどして自ら収容設備を設置していくべきだったのでしょうが、わが国には民間篤志家による救済機関設置の歴史がないので、自分たちで何とかしようとする運動ではなく、政府に対する公的機関設置・請願運動になっていくのです。
わが国では、すべからくこの種の運動が中心ですから、政府の役割が大きくなる一方です。
公的機関となれば、これまで書いているように国民監視・監督が本業の内務官僚出身者の管轄である上に、対象者は社会の最弱者ですから、歯止めのない人権侵害・管理思想中心の運営になっていくのは当然です。
ただし、前回必然的に公的病院設置に結びついたと書きましたが、これは日本の特殊事情からであって、本来は個人では担いきれないならば、慈善団体あるいは篤志家による施設設置が進んでも良いのです。
ところが、わが国では民間蓄積資本が乏しかったことや、当時、廃仏毀釈の嵐で仏教関係団体の経済力が疲弊していたこともあって、公的機関設置運動に結びついただけの話です。
恥ずかしいことに、らい患者の慈善事業はキリスト教徒が来日してその悲惨さに感じた個人的な事業や、キリスト教会の事業として日本全国で行われてきたのです。
現在最貧国の悲惨さを救済するために、個人で、最貧国に出かけていって貢献しているような図式ですが、日本の宗教家は何をしていたのか?となりますが、何をするにも先立つものは金ですから、主な宗教組織である仏教界が、廃仏毀釈で存亡の危機に見舞われていて、人のことどころではなかったのでしょう。
明治政府は資本がなかったのですが、宗教は別として民間の資産家はどうしていたのでしょうか?
資金があれば金儲けに投資したり政治家の政治資金に寄付したりなど、何らかの見返りのあることしかお金を出さなかったのでしょうか?
現在でも事業で大成功したからといって、何か産業育成に役立つような機関への寄付と言うのはあっても、後ろ向きと言うか、何の見返りもない・・・と言うか、いくら面倒見ても良くなる訳でもない・・甲斐のないこと・・慈善事業へのポンと寄付したりする資本家の話は滅多にありません。
日本人は、こうした事業に携わっている人でも、その笑顔がたまらないと言ったり、金銭でないとしてもなんか見返りを求めるところがありますが、キリスト教徒の場合、何の反応もなくとも黙々と奉仕する精神がたまにあります。
本当は「人のためになること自体に生きがいがある」と言う人もいるのでしょうが、大方の受け止方が功利的ですから、これに合わせるために敢えて、「こう言うときがたまらないのよね〜」などと言っているだけかも知れませんが、いずれにせよそうした何か見返りを要求する人のほうが多い社会です。
笑顔であれ、慕ってくるでもない、看護を続けても全くよくならない・・見返りと言うよりは、何の効果が無くとも、ともかく力がある限り困った人を助けようとする心は、もしかしたらキリスト教の10分の1税や原罪意識が作用しているのかもしれません。
関連ページリンク
©2002,
2003, 2004, 2005, 2006, 2007, 2008 稲垣法律事務所 ©弁護士 稲垣総一郎
Design
/ Maintained by Pear Computing LLC
