05/12/08
内務省から厚生省へ(厚労省の解体?)
治安・・国民を監視の対象としての意識に染まり切った内務省の主流から、衛生局長以下幹部が構成される仕組みだった上に、これが独立した後も内務省はずっと厚生省への人材供給機関であり続けたのですから、衛生局の主流的発想が患者の視点での運営と言うよりは、お上主導の管理・統制思想が基本になっていたのは当然の結果と言うべきでしょう。
国民優生法が昭和15年に制定されて断種手術が合法化される以前に、らい病の療養所長が結婚を認める引き換え条件としてその先取り実施をしたり、らい予防法に懲戒拘束が定められる前から各地療養所で懲戒拘束の規則が制定されて行くのも、彼ら内務官僚としての使命感が駆り立てたものでしょう。
そうして、民主化したはずの戦後制定のらい予防法では、この懲戒権が法律上の権限にまで昇格していくのです。
民主的観点からの思想的入れ替えのなかったことから、民主化されたはずの戦後になって、却ってらい病者の強制収用が活発化し、療養所での所長権限での患者懲戒検束権と言うものが発生し、懲罰収容を乱発していくことに繋がったのではないでしょうか。
西洋では、もともと慈善として始まっているので、隔離政策が必要となっても最小限にとどめる必要悪としての意識が強く、らい患者でもその一部病状に対してだけに採用されていたに過ぎませんでしたが、わが国の場合、らい患者は症状の如何にかかわらず全部収容される政策であったどころか、本来はらい患者でない類縁のものまで強制収容され続けていたのです。
また、西洋では収容がもともとの目的ではないので、らい病の治療薬発明後は急速に隔離政策が無くなっていくのですが、わが国では、治すことよりも収容それ自体が目的化していたので、戦後国際学会から収容隔離政策中止の勧告を受けても隔離政策をやめませんでした。
こうした体質は、治安目的の思想に心髄まで染まった人が出世して、らい政策のドンとして運営していたからでしょう。
ちなみに、ここ10〜20年あまり薬害エイズに始まる厚生省関連の不祥事が相次いでいますが、その思想的基盤を考えて見ましょう。
厚生省は、前記のとおり内務省の国民に対する統制・監視の血を濃く受け継いで国民監視思想で凝り固まった伝統的機関でしたが、内務省そのものではなかったので、戦後民主化で解体されず、その衣鉢を受け継いでもっとその精神を強化してきた経緯があるのです。
後に、戦後のらい予防法制定時のらい関係の責任者の国会証言の議事録の要録を紹介しますが、その意見を見ていると、戦前の内務省の思想そのままの警察国家的主張で、国際感覚や民主主義を冷笑して切り捨てているのです。
こうした強制と管理オンリーの人が、戦後の厚生省の重鎮・ドンとして、新法令の策定に影響を及ぼし、戦後の方が、戦前よりもらい患者に対する強制措置が法律上も強化されていったのです。
彼はその功績でその後文化勲章などを受けているのですが、こうした体質がついに国民の目線で許されなくなって来た結果、薬害エイズに始まる厚生省の不祥事の続発に繋がっているのではないでしょうか?
年金不祥事で社会保険庁の解体的出直しまで言われるようになりましたが、厚労省は戦前の内務省の精髄を遺伝子として持ってきたのですから、その解体こそ戦後民主化の総仕上げになるべきことかもしれません。
薬害にしろ年金にしろ、生活保護にしろ、国民のための役所としての自覚が足りないのが基本的問題点でしょう。
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