05/15/07
各種資格の制限2(左遷2・官位剥奪)
菅原道真の場合、太宰権帥ですから、九州1円の支配者・・・今で言えば大したものですが、それでも、中央の政治生命が抹殺されたのです。
中国歴代王朝の高級官吏が(新法派と旧法派の争いなど)など政争で負けるとショッチュウ左遷が繰り替えされたのも、似たような状況を前提にしたものです。
話しがかなり飛んでしまいますが、左遷の場合は一応官位があるので、食べるのには困りませんでしたが、流罪・島流しは、(後醍醐天皇、崇徳上皇のような天皇家は別として)罪人として官位剥奪されるので、行った先で食べて行く方法が有りません。
12/13/03「会津の悲惨3(刑務所の歴史2)」その他で、江戸時代の刑罰の種類として所払いや島流しの効果を紹介したことがありますが、そのずっと前の島流しでは、よほどの生活力がないと生きて行くのが難しかったのです。
鎮西八郎為朝の場合には、流された八丈島で、そこで再び勢力を盛り返したことになっていますが、こんな豪傑は例外でしょう。
言うならば、生活費の支給も止める段階ですから、姨捨山に捨てるのと同じで、死刑に近いものでした。
(俊寛僧都が海草を食べていた話は有名ですし、蛭が小島に流された頼朝は乳母の実家比企氏からの仕送りで、食いつないでいたのです)
唐王朝での党錮の争いについては、01/20/06 科挙試験14(殿試1)と師弟関係(派閥とは?)で紹介しました。
王安石の新法派と旧法派の争いも有名です。
この政争で敗れた方は、原則として左遷されるだけでしたから、後ろ盾になる皇帝が変わる都度、交互に何年にもわたって政争を繰り返したのです。
平安末期以降武士の時代が来ると必ず首を切ったのは、社会的地位のない(官位があってもゴク低い)者同士の戦いだったから、地位だけ奪っても仕方がなかったからです。
今でもやくざの抗争では、殺し合いにしか価値を置かないのは、公的地位などないのですから、同じ意味アイです。
平治の乱での敗者、源義朝には官位(左馬頭)がありましたが、源氏の実力は官位に基礎があったのではなく、地方に張り巡らせた地下人の支持に基礎があったので、官位を奪うだけではどうしょうもなかったのです。
もちろん戦国時代の武将も一応官名を名乗っていましたが、その基礎は官としての給与ではなく、領域支配によるものでした。
もちろん紀州九度山に隠遁した真田昌幸は、領域支配権を失った段階で、何の力もなくなっていただけでなく、生活費の大半を徳川家に付いた長男からの仕送りに頼っていたのです。
同じく関が原の敗者である各武将も同じで、その基礎さえ奪えばいいのであって、首まで切る必要性がなくなっていたのです。
長曾我部盛親とか真田幸村その他大阪方の名だたる武将は、関が原の敗戦でみな根拠地を召し上げられただけで、命は永らえていたからこそ、大阪の陣に馳せ参じられたのです。
これが武士の地位が安定した江戸時代後期になると、蟄居や隠居を命じるだけで十分な政治効果があったのです。
切腹まで命じる必要がなくなっていたのですから、これは、単に前時代の名残を墨守していただけでしょう。
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