05/12/07

法定刑の細分化5(刑法79)

この春ころに、「それでも僕はやっていない」だったかな?公開された映画・・痴漢えん罪事件の流れを想起して下さればわかるでしょう。
その映画の流れは、09/21/06「現在での未決勾留の必要性(自白獲得4)」のこらむで、紹介した実務の運用の紹介とほぼ同じ流れになっています。
この基準を法律に高める・・すなわちどう言う場合に逮捕する、どう言う場合は罰金(罰金の中でも細かい金額の基準を定める)、どう言う場合は公判請求(懲役刑請求)と条文で決めると、こう言う不透明な運用がなくなるでしょう。
現行法は、殆どが「罰金または、懲役何年」と言う幅広い法定刑があるから、検察や裁判所による私物化した運用がまかり通るのです。
いちばん簡単な身近な傷害罪でも、何回も紹介していますが、事件にしない程度で終わるものから、罰金から懲役15年まで無限と言えるほどの大きな幅があるのです。
こんな大幅な自由裁量幅のある法律をつくって、処罰をする基準も大幅な裁量に委ねる社会って法治国家といえるのか?という疑問です。
起訴不起訴の基準は、事件ごとに千差万別であるから、法定化になじまないというのが、これまでの通説的理解ですし、私もそのように誤解していました。
あるいは、裁判における量刑の基準も、法定化出来ないという同様の説明でした。
しかし、膨大な数の検察官がでたらめな運用にならないように・・検察官一体の原則・・内部基準が文書化出来ているならば、それを公開して何故悪いのかと言う疑問です。
そんな
「基準を知ると悪い奴が法スレスレの行為をするから、ただ恐れさせておくだけが良い」
と言うのでしょう。
この価値観は、江戸時代の論理・・愚民観に基くもので、公事方お定め書きや御触れは、国民に知らせないようにしていたことを紹介しました。
これに対し、西洋で発達した功利主義哲学では、あらかじめ知らせておく方が国民は何が許され、何が許されないかがわかって行動指針がはっきりして却って法が守られると言う意見で、罪刑法定主義が広まったものです。
現在日本国民のレベルからして、国民に対して予め「法を知らしむべきか、知らしむべからず」かの原則に戻って考えてみれば、直ぐに勝負がつく結論でしょう。
どこまでやれば、本当に処罰されるほどの違法なのか、どこまでやれば逮捕されるのか、在宅調べくらいのなのか、罰金刑になるのか懲役を求刑されるのかの大まかな基準を、国民が予め知っていてなぜ悪いのかと言うことです。
もちろん、基準はどこまで行っても基準であって、実際に当て嵌めるための幅(職人芸的部分)が残るのは、仕方がないのですが、少なくとも基準の段階までは公開し、それを法律に高めるべきです。そうして、その当て嵌めのミスを裁判で争えるようにすべきです。
これが、もともとの罪刑法定主義と裁判制度の存在意義ですから、
「基準など国民が知っても、どうせ運用の幅があるのだから、無駄だ」
国民は知らない方がいいのだと言う論理はおかしいのです。
裁判制度は、そうした微細な運用の幅を判例の集積で定立して行き、公開の批判を受けながら正して行くのが眼目です。



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