05/28/06
左右大臣と参議1
1871(明治4)年9月13日に太政官は、正院(太政大臣三条実美)・左院(左大臣島津久光)・右院(右大臣岩倉具視)に分かれ、その下の官庁は6省から8省になります。
07/19/05・・・2「藩の消滅(廃藩置県1)」以下で紹介したように、廃藩置県で明治4年7月14日に日本中の知藩事が地位をなくしたのですが、その2ヵ月後に島津家だけは、ちゃっかりここで左大臣として昇格して復活しているのです。
2ヵ月後に、いきなり復活はないでしょうから、廃藩置県の準備段階で内々の話があったと見るべきでしょう。
島津久光は、息子が知藩事を免ぜられたと聞いて、国元鹿児島で、意趣晴らしに花火を打ち上げたと言い伝えられていますが、自分も腹を立てていると言うパフォーマンスだったのでしょう。
そうは言っても、左右の大臣は以下に紹介するように形式的・・名誉職的な地位でしかなく、実務は参議以下で動いていくことも、予定されていたのです。
1873(明治6)年5月2日の「太政官職制」の改正で、太政官正院の参議の職責として、
「内閣ノ議官ニシテ諸機務議判ノ事ヲ掌ル」
と定められ、同時に改正された「正院事務章程」では、
「正院ハ天皇陛下臨御シテ萬機ヲ総判シ太政大臣左右大臣之ヲ補弼シ参議之ヲ談判シテ庶政ヲ奨督スル所ナリ」
参議が既に議論し尽くした議題について、左右大臣は、天皇を輔弼するのですから、形式的には、輔弼する左右大臣の意見次第で、天皇の決裁が左右される重要な地位と言えるでしょう。
しかし、実務を良く知らない左右大臣としては、概ね参議の上奏をようやく理解して天皇の質問に答えるのがやっとでしょうから、殆どの場合は、飾りでしかなかったのです。
天皇も、左右大臣は、格式上参議より上の地位についているだけで、何も分ってないと分っていますので、正院での会議では、左右大臣に意見を求めず、直接参議の議論を聞いたうえで決済していたのでしょう。
その結果、
「内閣ハ天皇陛下参議ニ特任シテ諸立法ノ事及行政事務ノ當否ヲ談判セシメ凡百政ノ機軸タル所タリ」
と定められ、権力を正院に集中し、左右大臣の形骸化を制度上始めて行くのです。
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