05/28/06
明治政府の組織の続き
明治の法制度の解説から、いろいろな話が割り込み大分離れていましたが、今回は、07/21/05・・2
「政体書と中央組織」あたりから、07/29/05・・・・2「明治以降の刑事関係法の歴史3(清律から西洋法へ1)」のコラムまで、書いて来た明治の政府組織・・解説の続きです。
(やっと横道から帰ってきたと言うところです)
1873年(明治5年)には、左院から民・刑事法の制定作業が、司法省に委ねられたことを書き、
その転換の一つとして弾正台の廃止について紹介しているうちに、「・・・台」が、別格として使用される傾向について書いているうちに、大分横道に入ってしまいました。
約10ヶ月も期間が開いていますので、何の話か分り難い読者の方は、この辺のコラムをもう一度お読み直しください。
これから書きますように、明治維新政府は、太政官制を一旦宣言しながら、直ぐにも、実権を太政大臣及び左右大臣から参議・・内閣へと移行して行くのです。
王政復古からの急激な方針転換は、学制改革が、明治4年に文部省に委ねられた時期と、ほぼ符合します。
あるいは、07/20/05「藩の消滅4(廃藩置県3〜4)」で紹介しましたが、版籍奉還後旧領主を知藩事としながら、わずか2年余りでいきなり、無能だからと言って、全員一斉にクビにしてしまったのと似ています。
教育制度の変遷については、09/26/03「教育改革・・・・明治維新と学制改革 4(文部省)」以下のコラムで紹介しました。
ちなみに左院とは、1871年に設置された太政官政府の構成機関のひとつで、平安時代で言えば、左大臣府をイメージしたものでしょうか?
今回以降は、07/21/05・・・2「政体書と中央組織」のコラムで、政府中央組織(2官6省)を少し紹介しましたが、そのおさらいプラスアルファです。
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