05/25/06
中世末の政治権力と宗教の対立1
諦めに換わる要求行為として、集団的に現れたのが、加賀の一向一揆に代表される各地の一揆でしょう。
他方で、政権側も実力がついてきたので、戦国時代末にかけて、信賞必罰の時代がやってきます。
こうなると政権側でも、(信長に代表される戦国大名です)自分で思うように処罰できるようになったので、
「秩序を守らないと地獄へ行く」
と言う宗教家による説法に頼る必要性が、薄れてきます。
自分で好きな法を制定し、守らない者は、びしびし処罰できる体制になったのです。
戦国大名が独自に領内向けの法を制定する動きが、皆さんご存知の朝倉家や武田家等の分国法があります。
分国法と言うのは、それまで全国的権威を持っていた貞永式目の下位に立つものではなく、(これに拘束されず)制定者である戦国大名自らが、最高権威として制定したものです。
この趣旨を明文で宣言したものとしては、今川仮名目録追加が知られています。
分国法の最初と言われるのが、肥後の国球摩郡人吉荘を本拠とする相良氏法度です。
相良為続が明応2年(1493)に制定した7か条、長毎明応9年(1500)から永正15年(1518)にかけて制定した13か条、同春広が天文24(1555)年に制定した21か条の3代にわたる合計法度41条からなっているものです。
次は、大内氏掟書きで、内容は1439年からのものから含まれますが、編集されたのが1495年になるらしいです。
3番目が前記の今川氏近が、大永6(1526)年制定した仮名目録とその嗣子今川義元が天文22年
(1553)に制定した追加仮名目録からなる法典です。
その他有名なところでは、「甲州法度の次第」と言うのが、武田信玄の制定したものですし、朝倉氏の家訓等々があります。
その他、いろいろありますが、書ききれませんのでこの辺で紹介を止めますが、戦国大名はそれぞれ「家法」を制定して、領国を統制していたのです。
以上の骨子は、牧英正氏外の日本法制史からの引用です。
こうして、気候が良くなって生産が増加し、他方で俗政権からの締め付けばかり強くなって、相互に邪魔な関係になってきた結果、さしあたり宗門の方から、分け前が少ないことに対する抵抗が始ります。
この大きなものが、加賀の一向一揆であり、各地での一揆の頻発だったでしょう。
この抗争が頂点に達したのが、信長による叡山の焼き討ちであり、門徒の総本山石山寺の攻城戦だったでしょう。
ここで、宗教対俗政権の勝負が大方ついてしまいましたので、宗教界の存在意義が、政権からみてなくなったというか、小さくなってしまったのです。
家光の時代の島原の乱は、キリスト教の弾圧ばかりに目が向きますが、信長対石山寺の戦争に続く、宗教界最後の組織的抵抗だったと見ることも出来るでしょう。
以後、宗教に基づく一揆がなくなっていくのです。
島原の乱は、関が原で勝負がついた後の、大阪の陣みたいなもの、あるいは江戸城明渡し後の函館戦争みたいなものだったでしょう。
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