05/24/06

日本人の心の原型(精神論のふるさと2)

精神論の究極の形が、武田家滅亡に際して、恵林寺の和尚が、唐末の詩人の1句を引いて言ったと言う
      「安禅不必須山水 滅却心頭火自涼 」(心頭滅却すれば、火もまた涼し)
のせりふでしょう。
現実に火が燃えていて熱くても、「気の持ちよう次第で熱くない」と言い張ることほど、現実無視の思想をあらわすものはないでしょう。
こんなことは、禅を勉強したこともないし、その修行もしたことがない無智蒙昧な人間だからこそ、牽強付会で無茶を言えるのですが、ま、ご容赦ください。
ついでに更に言いますと、座禅の瞑想をあり難がる文書が多いのですが、山岳仏教や修道院のように、場所的に隔離しないでも、心掛け次第で森林の奥にいるような気持ちになれると言うだけのことではないでしょうか?
前記杜荀鶴の上の句・・・「安禅不必須山水」は、まさにこの精神論であって、「いずくんぞ禅は山水を必須とせんや」(私の勝手な読み方です)と言うのですから、まさに「場所を選ばないよ」と言う意味です。
陶淵明の詩に
    結盧在人境    而無車馬喧   
     問君何能爾    心遠地自偏
と言うのがありますが、これも、人境にあっても、心遠ければ地自ずから偏なり、と言うわけで、「気持ち次第」と言う考え方を、わが国の文人は大好きです。
あるいは、中世頃から流行った精神論の刷り込みで、それ以来こうした考え方を特に好むようになったのかもしれません。
陶淵明の詩の中でも、わが国では、この詩が特に好まれていますが、もしかしたらこの傾向は、我が国だけのことで、中国や朝鮮では、どうなのか?比較文化として知りたいものです。
(我が国でも万葉や古今集の頃は、それほど評価されておらず、中世の新興宗教が起こってから脚光をあびるようになっただけかもしれませんので、国内での時系列での比較も知りたいですね。)
話がずれましたが、以上の次第で、実務家である武士が帰依していた宗教・・禅宗も、現実改革を志向するものではなく、現実から目を背けて生きていこうとする精神構造であった点は、他力本願の宗派と同じだったのです。
自力本願であれ、他力であれ、本願すると言う姿勢が、現実世界の改革を目指さない精神論そのものではないでしょうか?



関連ページリンク

Powered by msearch
稲垣法律事務所:コラム:検索

検索ベースはこちらから

 


コラムTOP

リンクを当コラムにはられる方はお読み下さい

©2002, 2003, 2004, 2005, 2006 稲垣法律事務所 ©弁護士 稲垣総一郎
Design / Maintained by Pear Computing LLC



ブログ
株式投資