05/24/06

政権と日本の宗教(精神論1)

話しを西洋の宗教改革との比較に戻しましょう。
西洋では新しい需要があって新旧両勢力のせめぎあいがあって新教が成立して行くのに対し、日本中世の新興宗教出現は、新旧対立によるのではなく、気候変動による厳しい生活・・社会の停滞に対する対応の問題として興ったものであった点が違うのでしょう。
前回コラムまで書いたように、日本の宗教はいつも社会的弱者の救済が主目的で、新しい時代の担い手が、主役になったことはないのです。
日本の新興宗教各派は、文字とおり「衆生済度」が目的の宗教であって、新秩序を作り出そうとするものでは有りません。
平安末期からの思想状況は、気候変動に基づくものですから、政治家もどうしょうもないし、思想家でもどう対応して良いか分らなかったのです。
そこで具体的な解決策の提案(これは新秩序です)が出来ず、精神論に逃げ込むしかなかったのです。
さしあたり、弱い庶民が気候変動の影響をまともに受ける訳ですが、彼らに対しては、さしあたり念仏やお経でも唱えて、陶酔の境地へ誘い不安を和らげるよう指導し、現実の被害に対しては諦め・・諦観で対応し、後は死後の極楽浄土への期待を込めて、祈るしかなかったのです。
簡単に言うと,超古代社会で雷や火山の噴火などの自然現象に対し、ただ恐れおののいてひれ伏していたのと、大差ない対応です。
勿論、法然や親鸞は、庶民に分かり易くするために、「お経を唱えていれば救われる」と説いたのであって、わたしなど想像もつかないほど、深遠な哲理の研究の結果の卓見ですから、以上のようにいうのは、まことに恐れ多いことです。
しかし、レベルの低い立場から結果だけ見れば、動物が自然現象に恐れおののいているのと、似ているのです。
これに対し、自立心のある武士層には、禅宗が対応されますが、(ただし、時期がかなりずれて気候が良くなってからですが・・・。)いずれにせよ現実世界を改革する教えではなく、精神論である点では同じです。
こうして、強きも弱きも共通して、わが国では、中世以降、何かと言うと精神論を振りかざす伝統になっていくのです。



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