05/22/06
中世までの政治権力と地獄の効用3 (実務家重視の社会)
保元の乱のときに、戦のプロである為朝の夜襲策を、戦を知らない左大臣頼長が斥けて、逆に平家方に夜襲されてしまって負けてしまう事例が、源平盛衰記に書かれています。
直ぐ後の平治の乱では、もはや公卿は口出しする余地が全くなくなっています・・時代の流れは速いのです。
以後、戦は戦のプロの意見だけでやることになっていくだけでなく、地方の政治も実務を知らない都の公卿が口出しできるものではなく、
「それぞれの分野で、実務家の意見に委ねるのが正しい」
と言う国民的合意が、このころに固まったのです。
日本では、このころから実務担当者の意見が強く反映される社会構造になっていったので、以後なだらかな社会構造の変革がスムースに行われるようになり、社会変革には、大言壮語の思想(ひいては大革命)が不要になっていくのです。
左大臣頼長については、エリート・秀才の問題点としての角度から、10/15/03「教育改革18・・・・・多様な人材を育てる教育システム1」のコラムでも、書いています。
オリから教育基本法の改正問題が、今国会の焦点になってきましたので、この機会に上記教育改革に関する私の意見を御読みくだされば幸いです。
あるいは、愛国心に関する意見は、別に書いていますので、教育改革のテーマごとに愛国心等々のキーワードで検索してください。
ところで平安末期の社会構造変化は、自然現象の変化が原因だったのですから、
「人事を尽くして天命を待つ」
式の諦観もスムースに受け入れられますし、兎も角神仏に縋るしかないと言う気持ちに、日本中全体がなっていったのです。
気候不順は日本全体の問題でしたから、武士層内のヘゲモニー争いがあった程度でしかなく、正反対の立ち場がなく、ひいては違った考え・対立者が生まれてこなかったのです。
新興宗教に話しを戻しますと、平安末から、いろんな宗教が生まれますが、結局は現世の生き方では「陶酔系+諦め系」それと、あの世での、地獄、極楽志向で共通していたと言えるでしょう。
日本でも、既存権威による弾圧がまったくなかったのではありません。
最初の内は、念仏やお経を唱えたり、踊っていれば救われると言って念仏や踊りなどに陶酔しているのは、今で言うところの怪しげな行為・・オカルトですから、庶民を惑わすものとして、禁圧されます。
これがいわゆる法難と言うもので、親鸞は越後へ、法然は土佐に流されます。
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